太平寺の戦い

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半国守護の制度は、和泉などではやくから採用されており、河内だけの例外ではない。半国守護制は、地域を分割して支配する場合と、特に分割しない場合(和泉はこの例に入る)がある。ここに成立した河内の半国守護制も、和泉型であるとする意見(弓倉弘年「戦国期河内畠山氏の動向」(『国学院雑誌』八三の八))と、畠山在氏は飯盛城に、畠山政国は高屋城に在城しており、南北に支配地域を分割していたとする意見(今谷明『守護領国支配機構の研究』)とがあるが、決定的な史料は見当らない。それというのも、河内の半国守護制は、四年後の天文一一年(一五四二)には、はやくも瓦解してしまうからである。

 木沢長政は、前にも述べたように細川晴元の引き立てによって急成長した武将で、この時期河内半国守護代のほか、山城守護代(守護は細川晴元)もかねていた。しかし同時に信貴山(現奈良県生駒郡平群町)に城を築いて大和を制圧し、事実上の大和守護とも目されていた。長政は、戦国武将として一段の飛躍を期していたのである。

 天文一〇年、摂津国人の一部に細川晴元に反抗する動きがおこると、木沢長政はこれに同調して河内衆・大和衆を率いて摂津に出陣し、さらに公然と晴元に謀反して、京都にせまった(『惟房公記』天文一〇年一〇月二九日条)。

 木沢長政が細川晴元に謀反したことで、河内での遊佐長教との同盟は破れた。長政の攻撃をおそれた長教は、紀伊に亡命中の畠山稙長の河内回復を画策し、稙長また根来寺衆ら多数の紀伊勢を率いてこれにこたえようとした。天文一一年三月一〇日付で、紀伊出発直前の稙長に将軍の御内書が発せられ、この時点で稙長の河内守護は回復された(『大館常興日記』天文一〇年三月一〇日条)。

 同時に幕府の敵となった畠山政国は、高屋城から木沢長政のもとに逃れた。三月一七日、木沢長政は信貴山城衆のほか二上山(にじょうさん)城(現南河内郡太子町)、飯盛城衆ら五千余人をひきつれて河内に討ってでた。これに対して遊佐長教側には細川晴元の有力被官三好政長らも救援して八千余人が迎え撃ち、太平寺(現柏原市)のあたりで、落合川をはさんで合戦となった。その結果木沢長政軍が大敗し、長政は高屋城衆小島という者に組みふせられて首をとられ、首は将軍義晴のもとに送られた(『惟房公記』天文一一年三月一八日条ほか)。

 これが、戦国時代後半の南河内では最大の合戦となった、太平寺の戦いである。同時に二上山城・信貴山城も焼け落ちた。また飯盛城も細川晴元の軍に攻略され、畠山在氏は没落、ここに河内の半国守護制は終りをつげた。

写真103 現在の太平寺 柏原市