太平寺の戦いの後高屋城に入って河内守護に返り咲いた畠山稙長は、天文一四年(一五四五)に死去し、政長流畠山氏の家督は弟晴煕(はるひろ)がついだ。稙長・晴煕は形式上は守護ではあったが、実権は守護代の遊佐長教がにぎっていたことはいうまでもない。
太平寺の戦いでは、遊佐長教は細川晴元の全面的な支援をうけて木沢長政に圧勝した。だがその長教も、やがて細川晴元に反抗するいっぽうの中心勢力となった。摂津国人や三好氏の一部に晴元に反抗する動きが強まる中で、長教もまた時勢の先を読んで、木沢長政と同じような道を歩もうとしたのであろう。
天文一五年八月、遊佐長教は細川氏綱(うじつな)をおし立てて境に入った。氏綱は細川氏の一族尹賢(これかた)の子で、細川晴元に反対して高国の跡目を継ぐと称して牢人を集めていた。天文一二年和泉の玉井某が氏綱を取り立て、堺に討ち入ったが、挙兵に失敗し、さらに晴元方三好長慶(ながよし)の追討をうけていた。その後も氏綱は和泉方面にひそんでいたものと思われるが、遊佐長教はこの「氏綱を世に立申」さんとしたのである(『細川両家記』)。この時も三好長慶は堺に下向したが、堺会合衆(えごうしゅう)の扱いで退散、長教らはさらに天王寺で晴元方の軍勢を破り、八月末には氏綱を高屋城に迎えた(『証如上人日記』天文一五年八月二七日条)。
折から細川晴元政権も、末期症状を呈しはじめていた。遊佐長教はこうした情勢の中で、細川氏綱を旗印として押し立てることで、反晴元勢力の中心になろうとしたのである。天文一五年九月には、長教らは晴元方の重要拠点芥川(あくたがわ)城(現高槻市)に出撃して攻略した。
こうして遊佐長教の思わくは順調に展開するかにみえたが、細川晴元方も、三好政長らを中心に必死の反撃に出た。そして天文一六年七月、晴元方三好義賢(よしかた)・安宅冬康(あたぎふゆやす)らと、遊佐長教ら河内衆との間で、天王寺東方の舎利寺付近(現大阪市生野区)で大合戦がおこなわれた。双方の鑓(やり)数九〇〇本といわれ(『足利季世記』)、鉄砲が合戦に登場する前夜の、足軽による最大の集団戦とされ、舎利寺の合戦として名高い。
合戦の結果は、遊佐長教側が大敗した。晴元方は余勢をかって若林(現八尾市)に進出し、高屋城を攻めた。高屋城攻めは翌年に及んだが、天文一七年四月二四日、晴元方の大将であった三好長慶と遊佐長教の間で和睦が成立した。和睦の固めとして、長教の娘が長慶の室となった。この和睦は畠山方と細川方の和睦を意味し、この上は「世上五年も十年も静謚候はんずるかと、公家・武家・寺社・百姓等迄安堵の思(おもい)」をなしたという(『細川両家記』)。
だがこの両三年の遊佐長教と細川晴元方との抗争の中で、晴元方三好政長と三好長慶との対立が深まっていた。三好元長の子である長慶と、細川晴元・三好政長との間はこれまでも徴妙なものがあったが、この年一〇月長慶も細川氏綱を擁し、氏綱を家督にすえることを名目に、ついに細川晴元に対して反逆にふみ切った。そして翌天文一八年六月の江口の戦いで、長慶軍は三好政長を敗死させた。その後もしばらく長慶軍と晴元軍の抗争はつづくものの、細川晴元の政権は江口の戦いによって崩壊し、管領家細川氏の実権も三好長慶の手に移った。長年にわたって河内にも直接間節に大きな影響を及ぼしてきた細川氏も、ここに事実上滅亡したといってよい。江口の戦いは、畿内戦局と政局の大きな転換点となった。
太平寺の戦いから江口の戦いまで、遊佐長教の動きを中心に述べてきたが、太平寺の戦いの後飯盛城から没落した畠山在氏は、そのまま失脚してしまったわけではなかった。遊佐長教が細川氏綱を擁立すると、在氏は細川晴元に帰参を許され、晴元方の一員となって活躍した。前述した舎利寺の戦いでは、勝利した晴元方の中では松浦興信(まつうらおきのぶ)衆と畠山総州(在氏)衆の活躍が抜群であり、両衆の「惣勝ち」と称讃されたという(『足利季世記』)。そして天文一五年八月には、在氏は金剛寺に対して寺領などを安堵し(「金剛寺文書」三四〇)天文一八年六月四日には、在氏の嫡子尚誠(ひさあき)が、観心寺に対して、寺領の安堵状や禁制など、先例通り七通の継目判物をだしている(「観心寺文書」五一二~五一八)。在氏はその後も在世するが、この年五月九日に堺で遊佐長教らに大敗しているから(『細川両家記』)、あるいはこれを機会に家督の交替がおこなわれたのであろう。在氏・尚誠とも、晴元方として守護に任命された可能性はあるものの、確証はない。しかしいずれにしても、観心寺はじめ錦部郡方面では、守護の権限をもつ者として認められていたことは、これまでと同様である。
畠山尚誠が観心寺に安堵状を発した二〇日後に、江口の戦いがおきている。三好長慶と固く結んでいた遊佐長教は、畠山尚誠を圧倒し、河内を統一して大名となる展望をもち得たはずであった。事実江口の戦いの後は、河内では平和であった。ところが天文二〇年五月、日ごろから目をかけていた時宗僧侶の手で、遊佐長教は、酔って就寝中にあっさり暗殺されてしまった(『天文間日次記』天文二〇年五月一一日条(『藤井寺市史』四)。