三好長慶の河内支配

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遊佐長教暗殺の黒幕は、萱振(かいほり)某といわれる(『天文間日次記』天文二一年二月一五日条)。萱振某は事件後飯盛安見(やすみ)美作守の下郡守護代とならんで、高屋城にて上郡守護代となっており、畠山氏有力被官の一人である。萱振は現八尾市内に地名があり、そこを本貫地とする国人であろう。安見美作守は本名を直政とするのが通説だが宗房(むねふさ)が正しく、遊佐一族の出身で山城八幡郡の有力国人野尻(のじり)氏の一族安見氏の養子となり、河内交野郡を本拠とする国人であった(弓倉弘年「天文年間の畠山氏」(『和歌山県史研究』一六))。萱振氏が遊佐長教を暗殺させた動機については明確な史料はないが、遊佐長教が三好長慶と固く結んだことから、三好長慶の河内進出に危機感をつのらせたからである可能性が高いように思われる。萱振氏が安見宗房と示し合せていたかどうかも不明であるが、安見宗房は、この後反三好長慶の立場をもちつづけることになる。だが遊佐長教暗殺後、河内には混乱がつづき、三好長慶の河内支配を早める結果となった。

写真105 三好長慶画像

 遊佐長教暗殺後、萱振氏と安見宗房の間には対立があり、両方互いに遺恨を結んでいたといわれるが、天文二一年(一五五二)二月、安見宗房は萱振氏を謀殺、一族も皆殺しにしてしまった(『天文間日次記』天文二一年二月一五日条)。こうして安見宗房は高屋城の実権を掌握することになった。この年六月、宗房は当時「牢人衆」とよばれていた畠山上総介(在氏か)の攻勢を退け、九月には、政長流畠山家の家督で高屋城主に、晴熙の子高政(たかまさ)をたてた(『証如上人日記』天文二一年九月二九日)。高政は安見宗房によって擁立されたわけで、宗房は守護代として実権をふるうことになった。ただし高政は正式に守護として公認されたかどうか不明で、宗房も正式の守護代かどうかはわからないが、便宜上守護代と記しておく。以下の河内守護、守護代は、すべて同様である。

 永禄元年(一五五八)一一月、安見宗房との対立を深めていた畠山高政は、高屋城を出奔して紀伊に逃れた。安見宗房は事実上の高屋城主となった。ところが、紀伊の有力国人の湯川直光(ゆかわなおみつ)は、三好長慶にはたらきかけて畠山高政の河内復帰を画策した。これに対して宗房は、三好長慶と対立している紀伊根来寺衆に加担して三好軍と戦い、畠山高政の河内回復を防ごうとした。しかし永禄二年六月、三好軍は二万といわれる大軍を河内にさしむけ、八月、ついに安見宗房と同調する河内国人衆を高屋城・飯盛城から追放してしまった(『細川両家記』『足利季世記』)。

 こうして畠山高政は高屋城復帰をはたし、守護代には湯川直光をすえた。ところが河内国人衆は、他国者の守護代就任には強く反発した。止むなく畠山高政は安見宗房と和睦し、永禄三年五月、宗房を守護代に再任した。ところが高政と宗房の和睦は、三好長慶の了解なしにおこなわれていた。長慶と鋭く対立してきた安見宗房からみれば、長慶が支持した畠山高政を河内方にとりこんだ形になった。

 このことが、三好長慶の河内占領の名分となった。永禄三年七月、三好軍は大挙して河内に進攻した。この時代でも河内と関係が深かった大和にも、松永久秀(まつながひさひで)が大将となって進攻し、やがて大和一国を制圧する。

 八月六日、三好軍は石川郡に進攻、一向一揆が果敢に抵抗し撃退したが、八〇人が討ち死する犠牲をだした。この時木沢大和守が三好へ同調した。大和守は木沢長政の一族と思われるが、南河内に勢力を保っており、反高政として三好軍に通じたのであろう。八月一六日にも三好軍は石川郡を攻撃、首級一一をあげた。

 高屋城・飯盛城のほか中河内の各地、さらに石川郡にまで進攻した三好軍に対し、河内勢はきびしく抵抗し、根来寺衆も河内勢に合力したこともあった。しかし抗戦四カ月、一〇月二四日に飯盛城は開城して安見宗房は堺に逃れ、同二七日高屋城も開城、畠山高政もまた堺に逃れた。入れ替わりに、一一月一三日、三好長慶が飯盛城に入城、同日高屋城には長慶の弟三好実休(じっきゅう)が入城した(『細川両家記』)。

 三好長慶は、天文一八年江口の戦いによって細川晴元政権を事実上崩壊させたあと、幕府政治の実権を握っていた。しかし本拠は京都におかず、はじめ摂津越水(こしみず)城(現兵庫県西宮市)におき、ついで芥川城に移り、河内占領後は飯盛城を本拠と定めたのである。有名無実と化しつつある将軍と妥協して小さな政権の座につくより、畿内や近国をきりしたがえる戦国大名を目ざしたのである。飯盛城に本拠を移して長慶は全盛の時期を迎え、飯盛城は京都を含めた畿内政局の中心となった。