以上、三好長慶の河内支配にいたる戦国時代後半の情勢を大まかに概観してきたが、享禄元年(一五二八)に畠山稙長が金胎寺城に入ったのを最後に、富田林市域の地名や城名は、石川道場以外には登場してこなかった。それは、戦国時代後半の河内での合戦は、政権をもつ細川氏や三好氏とより直接にかかわり、高屋城以北で戦われることが多く、関係史料の中にも市域内の地名や城名はみえないからである。
ところが三好長慶が支援して畠山高政を高屋城主に復帰させた永禄二年(一五五九)から、富田林市域の寺社に宛てた文書の原本や写本があらわれはじめる。すなわち、もと富田林の興正寺別院に伝わり、現在は京都の興正寺に所蔵されている興正寺文書は永禄三年からはじまっている。また慶応元年(一八六五)ごろに作成された「興正寺御門跡兼帯所由緒書抜」(中世九五、以下「興正寺由緒書抜」と略称)や天保一四年(一八四〇)ごろに作成された「古記輯(しゅう)録」(佐藤家文書)(表紙無題。村明細帳に類似した形式をとっているが、村明細帳そのものではない。『富田林市誌』にしたがって、仮に「古記輯録」と名付けておく)などには、原本が伝わるもののほか原本が伝わらない文書若干が書写されている。写本でもっとも古いものは、永禄二年である。喜志の美具久留御魂神社(喜志宮)には、元亀・天正年間(一五七〇~九二)の古文書が多数所蔵されており、その中には本節の政治過程にとっても重要な史料が少なくない。さらに南大伴の円照寺にも、元亀三年の文書二通が伝えられている。以下の記述は、これまでの記述とはやや視点をかえて、これらの富田林市域に伝わってきた文書を中心に、すすめてゆくこととする。
さて「古記輯録」に筆写されている興正寺文書の中に、原本が伝わっていない永禄二年九月日付の畠山高政の禁制があり、宛先は「興正寺東(末の誤写)富田林」となっている。年月も「永録治年未九月」と記すなど誤字の多い写本で、他の文書と混同している可能性もある。しかし内容は次節であらためて述べる寺内町の特権に関するもので、かつて大切に保管されていた文書であると思われる。古文書学的には質のよくない写ではあるが、この文書写が、「富田林」の名称がみえる最初の史料である。
次に「興正寺由緒書抜」中に、同じく原本が伝わらない、永禄三年三月日付「富田林道場」宛、美作守(安見宗房)定書が書写されている。永禄三年三月は、安見宗房は未だ守護代に復帰しておらず、三年は元年の誤写ではないか、とする意見がある(『富田林市誌』)。この説が正しければ、永禄元年が「富田林」の初見となるが、失脚中でも富田林地方に勢力をもっていれば定書を出すことはあり得るから、ここではこの定書の年次をあえて訂正しないでおきたい。
原本が伝わる確実な文書では、永禄三年七月七日付「富田林道場」宛、三好政康禁制(中世七五)が、「富田林」の初見となる。なお興正寺文書の中には、永禄三年五月一一日付「とんた林之御はう(坊)」宛、松帯刀左衛門尉久請取があるが、「五」かと推定される文字をすり消した上に「三」の文字をかさね書きしている。ちなみにこの文書は「興正寺由緒書抜」では、永禄五年と書写されている。「五」を「三」に訂正した理由は不明であるが、次節で述べるように、内容からも永禄五年であると考えられる。
どの史料をもって初見とすべきかについては問題がのこるが、いずれにしても「富田林」の名称は永禄初年には登場してきた。それは偶然ではなく、一向宗信者の修業の場であった富田林道場から発展した興正寺別院の建立と寺内町の開発に深くかかわっている。その様子については次節でくわしく述べるが、ここではまず、永禄初年は、「富田林」の地名がはじめて登場してくる記念すべき時期であることだけを、指摘しておこう。