さて現存興正寺文書では、「富田林」の地名こそないものの、永禄三年(一五六〇)六月七日付、松帯久の料足請取(中世九五)がもっとも早い。この文書は、興正寺別院の創建と「富田林」の出発についての基本史料の一で、次節で検討する。
ついで前述した永禄三年七月七日付、三好政康禁制、さらに同年七月日付で「富田林道場」宛三好長慶、三好之康(ゆきやす)、「上河内石川道場」宛十河一存(そごうかずまさ)の各禁制が原本で伝わり、「興正寺由緒書抜」には、同年七月日付、「興正寺道場富田林」宛、沙弥宗繁(そうはん)(安宅冬康)の禁制が写されている。「興正寺由緒書抜」はさらに同年六月付山城守(三好康長(やすなが))禁制の目録を記すが、この禁制は後述のように永禄四年が正しい。また永禄三年九月日付で「富田林道場」に宛てて松永久秀が禁制をだしている。
三好長慶の禁制は、次のとおりである。
禁制 富田林道場
一、当手(とうて)軍勢、甲乙人(こうおつにん)乱入狼藉の事
一、竹木を剪(き)り採る事
一、放火の事
右条々、堅く停止せしめ訖(おわ)んぬ。若(も)し違犯(いぼん)之族(やから)に於(お)いては、速やかに厳科に処す可(べ)きもの也(なり)。仍って下知(げち)、件(くだん)の如(ごと)し。
永禄三年七月日 修理大夫(花押)(三好長慶)
当手(長慶配下)の軍勢や甲乙人(一般の庶民)が乱入して狼藉すること、道場周辺の竹木を伐ること(竹木は陣地構築のためなど合戦には必需の資材である)、放火のこと(放火の上略奪されることが当時しばしばあった)、の三カ条をかたく禁止する、というのが右の禁制の内容で、通常の禁制として一般的にみられるものである。なお永禄三年の富田林道場宛の禁制では、右の三カ条のほかに「矢銭・兵粮米を相(あい)懸くる事」が加わっているもの(三好政康・十河一存の禁制)、「放火の事」がなくて「喧嘩口論の事」があるもの(松永久秀禁制)がみられる。
直接合戦の場とならなくとも、軍勢が通過したり駐留したりするだけで、寺社や村々は、乱妨狼藉以下の災難をうける危険が常にあった。そこで寺社や村々は、すでに述べたように、やすからぬ礼銭を出して禁制を手に入れ、災難を未然に防止しようとしたのである。
それだけに、禁制の発給者は、寺社や村々がこうむるであろう災難を現実に防止できる実力をもっている軍事指揮官、あるいは寺社や村々がそのように期待した軍事指揮官、ということになる。永禄三年七月七日は、三好軍が河内進攻を開始した直後であるが、石川郡進攻以前、いわんや畠山高政・安見宗房が敗退する以前である。その段階で富田林道場が三好長慶以下各武将の禁制をうけていることは、三好軍の勝利、畠山軍の敗戦を予測していたことを意味する。ただし富田林道場がどのようにしてこの禁制を入手したのか不明であるが、同じころ観心寺も三好軍各武将の禁制をうけており、しかも発給をうけた場所を記した押紙が付されているものがある。すなわち永禄三年七月日の三好実休(之康)禁制(富田林道場宛と、宛先が異なるだけで全く同文)は、若林でうけている(「観心寺文書」五五七)。『細川両家記』によれば、四国勢を引率して河内に参戦した三好実休は、七月三日若井(江か)に入り、七月七日太田若林へ陣替りし、さらに七月一九日には、小山藤井寺に陣取りしている。観心寺は、この若林在陣中の三好実休のもとに出向いて、おそらく礼銭と引き替えに、禁制をうけたわけである。ついで永禄三年八月日付の十河一存の禁制は、和泉家原寺(現堺市)でうけ(「同」五五八)、同年九月日付松永久秀禁制は、九月八日「上河内円(延)明寺の嶽在陣の時、これを給う」と記されている(「同」五五九)。富田林道場宛の松永久秀禁制は、観心寺宛とは文面がやや異なるが、大和陣が一段落したあと南河内に進駐してきた松永久秀からうけたものであろう。富田林道場宛の各禁制も、それぞれ交付場所が異なり、それぞれに発給の歴史が秘められているのではなかろうか。
ところで三好軍の総大将は長慶であるから、長慶の禁制だけで、災難防止の効用はありそうに思われる。ところが実際には富田林道場も観心寺も長慶のほか複数武将の禁制をうけているのであるが、それは三好軍の軍事編成の問題、つまり各武将の軍団としての独立性が強かったからではなかろうか。