興正寺に伝わった禁制は、永禄四年(一五六一)に入ると、まず同年六月日付で「興正寺末寺富田林」に宛てた山城守(三好康長)禁制が知られる。原本は伝わらないものの、「興正寺由緒書抜」同様に興正寺の由緒や伝来古文書を筆写した「河州石川郡富田林御坊 御禁制書其外諸証拠書写」(富田林杉山文書)に書写されている。なお「興正寺由緒書抜」に目録のみ示される「一、同(永禄三)年六月 山城守」の禁制は、この禁制の年次を誤ったものとみられる。この禁制は、軍勢らの乱妨狼藉を禁じた通常のものとは違って、寺内町の特権に関する定書であり、その内容は次節であらためて紹介する。
こうして三好氏の河内支配は順調に展開するかにみえた。永禄四年三月には、さきに和睦していた将軍足利義輝(よしてる)を、三好長慶は京都の屋敷に迎え、五月には細川晴元とも和睦が成立、晴元は出家して摂津富田(現高槻市)の普門寺に入った。このころが、三好長慶の権勢の絶頂期であった。
ところが七月に入ると、近江の六角義賢(よしかた)は、自身の外孫である晴元の次男を立てることを名目に、反三好長慶の兵を挙げて京都東山に布陣した。六角義賢の挙兵は、畠山高政ら河内・紀伊勢とも打ち合わせた上であった。畠山高政・湯川直光・根来寺衆らは、六角義賢に呼応して紀伊からまず和泉に出陣した。長慶の河内占領の後、高屋城主三好実休とならんで岸和田城城主となっていた十河一存がこの年四月ごろ死亡し、岸和田城は城主不在となっていたことも畠山勢を勇気づけ、気勢大いにあがった。三好長慶は、和泉表に対しては高屋城主三好実休を大将に、三好政康・三好康長・安宅冬康ら、前年富田林道場に禁制を与えて河内に駐留していた三好一族の軍勢を出陣させ、畠山勢と対峙した。なお松永久秀はこの時は京都にいて、六角勢と対戦していた。
こうして三好長慶は、絶頂から一転して重大な危機をむかえた。この情勢を前に、さきに三好方各武将から禁制をうけた富田林道場の人々は、両軍の合戦がいまだはじまらない永禄四年九月に、前守護畠山高政、前守護代湯川直光の禁制をうけた。畠山勢の勝利に備えて、いわば保険をかけたのである。永禄四年九月日付「河内富田中村」宛、源(畠山)高政禁制が興正寺文書に伝わり、同年九月一三日付「石川林之御坊」宛、(湯川)直光禁制が「興正寺由緒書抜」に書写されている。宛先の「石川林之御坊」は、「富田林」の「富田」が書写の際脱落したものであろう。また畠山高政の禁制の宛先が「富田中村」とある理由はよくわからないが、原本が興正寺に伝わることからすれば、「富田林」宛とみてまちがいないであろう(中世九五)。この二通の禁制は、おそらく当時和泉にあった畠山高政・湯川直光の陣所まで人を派遣してうけてきたものであろう。軍事情勢の変転を前に、寺社や村人たちは、忙しくそして機敏に対応せねばならなかった。
翌永禄五年三月五日、久米田(現岸和田市)にあった大将三好実休の本陣に対し、畠山勢は総攻撃をしかけた。そして実休を討ち死させ、三好勢二〇〇人を討ちとる大勝利をあげた。大敗した三好軍は、阿波・讃岐(現香川県)などそれぞれの本国に逃げ帰り、城主三好実休が討ち死した高屋城はあき城になった。そこで畠山高政は、高屋城を回復した。前年九月にいち早く畠山高政らの禁制をうけた富田林の人々の予想は、みごとに適中したのである(『細川両家記』)。
久米田の戦いの直後、同年三月一七日付で、惣分沙汰所勢尊から「富田林御坊」に宛てた、大樽(酒)二〇荷・三種(肴か)の請取がある(興正寺文書)。「興正寺由緒書抜」の写では請取人の署名が欠落しているが、文書のはじめに、「開発の所惣分沙汰所迄差出され候音物の請取書」と注記されている。「惣分沙汰所」とは紀伊根来寺の武力集団の中心をなす行人(ぎょうにん)方の執行機関である。
根来寺衆は、畠山勢の有力な集団をなしており、日付からすれば当然戦勝祝賀の意がこめられていてよいが、注記のはじめに「開発の所」と書かれており、「富田林」寺内町の開発をはじめたについて、こんどは根来寺惣分沙汰所にも音物(挨拶)として莫大な酒などを贈ったものと考えられる。三好勢と対決しながら、このころ根来寺の勢力が河内南部に強くおよんできていることは、永禄四年一〇月に観心寺は大伝法院(根来寺)惣分沙汰所祐範の禁制をうけていることによっても知られる(「観心寺文書」五六八)。富田林市域にも後にはより明瞭に根来寺の勢力が及んでくるが、その最初の史料が、この請取である。