教興寺の戦い

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高屋城を奪回した畠山勢は、ついで三好長慶が堅固にたて籠っている飯盛城を攻めた。ところがいったん本国に引きあげた三好康長・安宅冬康らが永禄五年(一五六二)五月に入るとふたたび摂津に集まった。これに摂津の三好勢や松永久秀らも一緒になって、五月二〇日、河内教興寺(現八尾市)付近に布陣する湯川直光・根来寺衆ら紀伊勢に攻撃をかけた。その結果、こんどは三好方が、湯川直光を討死させ、紀伊勢六百余人を討ち取る大勝利をあげた。飯盛城を攻撃していた安見宗房も、高屋城にいた畠山高政もともに退散した。この一戦は教興寺の戦いとよばれて名高く、たった一日の戦いで、河内はじめ大和・和泉・山城・摂津五カ国が三好方の勝利となった、前代未聞の戦いといわれる。教興寺の戦いの後、高屋城主には三好康長がなった(『細川両家記』ほか)。

写真110 現在の教興寺付近 八尾市

 永禄五年の畠山勢の河内回復は、こうしてわずか二カ月で失敗してしまった。畠山高政・湯川直光の禁制は、篋底深くしまいこむほかなかったはずである。

 だが教興寺の戦いの劇的な勝利にもかかわらず、三好長慶の権勢はこのあと急速に低下し、代って長慶家臣の松永久秀が抬頭した。永禄六年長慶の嫡子義興(よしおき)が病没したのにつづいて、永禄七年五月には、長慶は実弟安宅冬康を殺させた。安宅冬康の死は松永久秀の讒言(ざんげん)によるといわれ、このことがわかってすっかり落胆した長慶は、同年七月四日飯盛城で病死してしまった。

 長慶のあとは養子義継(よしつぐ)が継ぎ、三好氏一族の三好政康・三好長逸(ながやす)、それに石(岩)成友通(いわなりともみち)のいわゆる三好三人衆が、義継をもりたてることになった。永禄八年五月、松永勢と三好勢が京都で将軍義輝を襲撃し、自害させてしまった。彼等の政権構想にとって、将軍が邪魔となったからであろう。だがこの事件は、やがて日本の政治が大きく転換するきっかけとなる。

 将軍義輝を拭殺したものの、その後の主導権をめぐって三好三人衆と松永久秀がたちまち対立をはじめた。永禄九年二月、その久秀と示しあわせて畠山高政が、和泉衆や根来寺衆とともに、またまた反撃に出て河内回復を目指したが、三好勢も義継らが高屋城から討って出て反撃し、畠山勢を堺に退けた。永禄九年五月、松永久秀が高屋城を攻撃したが、久秀も敗れ、堺に退いた。ところがこんどは三好義継と三人衆が対立をはじめた。永禄一〇年二月義継は三人衆から離れて松永久秀をたより、久秀は義継を擁して志貴山城、ついで多聞山城(現奈良市)に拠り、三好三人衆と抗争をつづけた(『永禄九年記』『多聞院日記』ほか)。

 永禄一〇年九月、根来寺衆は烏帽子形城を攻めたが、失敗に終った(『多聞院日記』永禄一〇年九月一五日条)。烏帽子形城にいたのは、三好勢であろう。しかし三好勢は、錦部郡方面を完全に制圧していたわけではなかった。金剛寺は三好長慶在世中の永禄六年九月に遊佐教直(のりなお)の安堵状をうけ(「金剛寺文書」三五九)、永禄八年には畠山氏奉行人の禁制(「同」三六一・三六二など)についで、畠山政慶(まさよし)の安堵状をうけている(「同」三六九)。和泉に接する金剛寺方面では、畠山氏関係の勢力が優勢であったようである。