三好長慶の没後、河内はじめ畿内各地で松永久秀と三好三人衆との対立抗争を軸とする混乱がつづいている間に、日本の政治が大きく転換する機運が徐々に熟しつつあった。三好長慶が河内を占領した永禄三年(一五六〇)は、くしくも織田信長(おだのぶなが)が桶狭間の戦いに勝利した年にあたる。尾張(現愛知県)の統一についで、信長は永禄一〇年美濃(現岐阜県)を征服して本拠を岐阜に移し、「天下布武(天下に武を布(し)く)」を目標にかかげた。一方三好・松永勢に殺された前将軍足利義輝の弟は当時奈良興福寺一乗院の僧であったが、近江から越前(現福井県)に逃れ、還俗して名前も義昭(よしあき)と改め、諸大名に働きかけて、上洛して将軍に復活しようとしていた。
永禄一一年九月、織田信長はついに足利義昭を奉じて上洛を開始した。九月二六日、京都の東山、東福寺についた信長は、入京よりも先に畿内の制圧を目ざして摂津方面にすすんだ。当時、勝龍寺城(現京都府長岡京市)にいた三好三人衆の一人石成友通、芥川城にいた同三好長逸を退散させると、九月二六日には信長・義昭は芥川城に入った。畿内の国人でこの時信長軍に抵抗したのは摂津の池田氏だけであったが、その池田氏も織田軍の猛攻にさらされ、一〇月はじめに降伏した。三好三人衆は四国に逃れたのに対して、松永久秀は芥川城に祗候し、名物の茶器を献上して信長に降伏した。国人や堺の商人の一部らも同様に信長に通じ、信長の芥川在城一四日の間、門前市をなす事であったといわれる。こうしてまたたくうちに畿内を制圧してしまってから、信長は義昭とともに京都に入り、一〇月一九日、義昭ははれて一五代将軍となった。なお永禄一一年二月、三好三人衆は義昭の入洛を阻止しようとして、義栄(よしひで)を一四代将軍に擁立していたが、義栄は同年九月ごろ病没した。三好三人衆があっさり退散した理由の一つは、義昭に対抗すべき義栄が没したことにあったとみてよい(『信長公記』ほか)。
富田林興正寺別院も、芥川城へさっそく使者を走らせた。「興正寺由緒書抜」には、永禄一一年一〇月一日付で「富田林院内」へ宛て、信長の有力武将五人が署名した次の文書が写されている(中世九五)。
当寺内御制札これ在るの条、異儀あるべからず候。押して何かと申族これ有るに於いては、成敗有るべき者也。
連署している武将は、坂井政尚(さかいまさひさ)・森可成(もりよしなり)・柴田勝家(しばたかついえ)・蜂屋頼隆(はちやよりたか)および佐久間信盛(さくまのぶもり)の五人で、前四人は織田軍が摂津に攻め入るに際して先陣を仰せつかった武将(『信長公記』)、佐久間また信長の重臣である。文書の内容は、この五人の武将として、当寺(興正寺別院)中にあてて出されている「御制札(禁制)」を保証したものである。この「御制札」とは、前述してきた歴代の禁制や定書をさし、次節で述べる寺内町の特権も安堵されたとするのが、従来の解釈であった(峰岸純夫「一向一揆」『岩波講座日本歴史』八、一九七六年版ほか)。これに対して、「御制札」とは、信長が出した禁制をさし、それは軍勢の乱暴狼藉の禁止以下通常の禁制だったはずで、寺内町の特権安堵を含んでいないとする研究が、新しくなされている(堀新「織田政権の寺内町政策」(『古文書研究』三三))。たしかに五人の武将が「御制札」と記すのは信長の禁制がふさわしいが、「異儀あるべからず」の文言は、信長武将にしては尊大すぎるようにも思われる。ただし文書は写しか伝わらないので、一字一句についての議論はできない。信長の禁制そのものが興正寺に伝来しなかったことなども考えあわせると、双方の解釈があり得るようにも思われる。
しかし信長の武将が従来の制札をあらためて保証したにしても、この時点では、それは通常の禁制による安全の保証にとどまり、寺内町の特権安堵にまでは及んでいなかったとみるべきであろう。この時期の河内は形式上は将軍と守護の支配下にあったからで、信長は畿内の制圧が終ると、河内の南半国は高屋城の畠山高政に、北半国は飯盛城の三好義継に安堵している。