つぎに興正寺が伝えてきた織田信長関係の文書は、元亀元年(一五七〇)九月日付、「富田林寺内中」にあてた次の織田信長朱印状である。この文書も残念ながら原本は伝わらず、「興正寺由緒書抜」中に筆写されているものであるが、きわめて興味ぶかい内容をもっている(中世九五)。
今度下間丹後(頼総)所行を以て、大坂の働(はたらき)不慮の躰(てい)、且者(かつは)天下に対し不儀、且者門下の法度(はっと)に背くの条、旁(かたがた)以て是非(ぜひ)無き次第也。然而(しかれども)当寺内の事、下間に与(くみ)せざるの由、忠節神妙に候。寺内の儀、聊(いささか)別条有る可(べ)からず候。猶(なお)蜂屋(頼隆)・佐久間(信盛)申す可きの状、件の如し。
元亀元年は、織田信長に対する本格的な反撃が開始された年にあたる。この年四月、信長は越前朝倉(あさくら)氏討伐にむかったが、敦賀まで進んだところで近江の浅井(あざい)氏が信長に謀反をおこし、織田軍は大敗した。六月、北近江姉川の戦いで織田軍は浅井・朝倉連合軍を破ったが、八月には三好三人衆が摂津の野田・福島(ともに現大阪市福島区)で挙兵した。三好三人衆は、前年永禄一二年(一五六九)に京都で足利義昭を攻撃して失敗しており、二度目の挙兵である。信長はむろん急ぎ摂津に出陣し、野田・福島の三好三人衆の砦(とりで)は、落城寸前においつめられた。ところが九月一二日、野田・福島にほど近い石山にあった大坂本願寺から、信長陣所に突然攻撃を開始した。一向宗の本山である本願寺は、信長の上洛いらい、多額の矢銭賦課にも応じて友好関係を保ってきた。だが、野田・福島の砦の落城後は、つぎに、本願寺が攻撃されることは必至とみて、宗主顕如(けんにょ)は、反信長にふみきったのである。挙兵をうながす宗主の指令は各地の門徒に発せられた。一方、本願寺の挙兵に呼応して浅井・朝倉連合軍が京都にせまり、前述した富田林院内にあてた文書に署名している武将の一人森可成を討ち死にさせてしまった。織田軍は東西から挟撃される重大な危機に立たされた。
右の信長朱印状は、この危機の中で発せられたものである。「大坂の働」とは、本願寺の挙兵をさす。ただしそれは、本願寺の坊官である下間丹後の所行だとし、かつは天下に敵対し、かつは宗門の掟に背いているので、これと戦うのは是非ない次第だと記されている。本願寺の挙兵は宗主の指令によることを信長は百も承知のはずだが、それを一坊官の所行と記すのは、事件を小さくみせようとする、政治的配慮、宣伝であろう。ところで当寺内(富田林興正寺別院)の人々は、本願寺に同調しなかった。それは信長に対して「忠節神妙」だとほめる。そして従来与えている寺内に対する保証は、いささかも変わりはない、とあらためて保証する。最後に「猶蜂屋・佐久間申す可き」とあるのは、両将は富田林の興正寺門徒に対してさらにくわしく説明する役割をもっていたことを意味する。
信長朱印状の内容は、およそこのようなものである。本願寺の指令のもと、河内の一向一揆も各地で挙兵し、急ぎ撤退する織田軍を大いになやませた。そんな中で富田林興正寺門徒は同調しなかったわけであるが、それは、重大な危機にある信長を大いに喜ばせた。そのことが推測される文面である。なおこの朱印状が保証しているのも、軍勢の乱暴狼藉禁止など、通常の禁制にとどまるとみるべきであろう。
興正寺には、ついで元亀三年四月五日付、「富田林惣中」にあてた、柴田勝家・佐久間信盛連署の書状(内容は禁制)の案文(写)が伝わっている(中世九五)。「御動きの儀について、御意を得相拘(あいかか)うるの条、陣取・放火・乱暴狼藉以下、聊これ在る可からず候」云々というのが、文面である。
元亀元年の危機を、信長は勅使を要請して講和でのりきったが、河内や摂津などの国人に与えた衝撃は大きかった。元亀二年、松永久秀は信長から離れて三好三人衆と結び、大和・河内の城を攻め、六月には久秀と三好三人衆は高屋城を攻めた。信長によって高屋城主を安堵された畠山高政は、永禄一二年遊佐信教らに追放され、その弟昭高(あきたか)が擁立されていた。遊佐信教らはよく守って三好三人衆・松永久秀の高屋城攻略はならなかったが、三好・松永勢の攻勢はつづいた。そして当時若江城にいた三好義継も、三好・松永方に同調した。こうして元亀三年四月、信長はついに佐久間信盛・柴田勝家をはじめ、二万といわれる軍勢を河内に送ったのである。
「御動きの儀」とは、織田軍の河内出陣をさすものと考えられる。「御意を得、相拘う」とは、要請のとおりに織田軍として保護する、という意味で「陣取・放火・乱暴狼藉」などの禁止が、その具体的内容である。永禄一一年いらい信長が興正寺別院に与えてきた保証も、これと同じ内容であったと思われる。
織田軍の河内出陣によって松永久秀は志貴山城へ、三好義継は若江城へ籠ったが、織田軍はその動きを封じただけで引きあげた。信長包囲の危機は、依然緊迫していたからである。