喜志の美具久留御魂神社(喜志宮)は中世では下水分社とよばれていたことは前に述べた。中世(および近世)には下水分社は、同時に、下水分寺、喜志寺ともよばれる寺院でもあった。その様子についてはあらためて次節で述べるが、喜志宮にも、元亀三年(一五七二)および四年(天正元年)の「下水分神境」「下水分寺内」「喜志寺内」などに宛てられた、九通の禁制が伝えられている。
九通の禁制は、三つのグループに分れる。
まず元亀三年八月日付、いずれも「下水分神境」に宛てた三通である(中世七八)。「神境」は「神社境内」の意味で、禁制の内容は、軍勢の乱妨禁止からはじまる通常の禁制とは違って、境内地の特権に関する掟が中心となっており、この内容については次節であらためてとりあげる。第一グループの三通の発給者は、①「越前守・越中守」連署、②「肥後守」、③「河内守源朝臣」と、いずれも官職名と花押を署しているだけで、氏名がない。しかし金剛寺文書などと比較照合すれば、①は畠山氏奉行人の丹下越前守遠守、遊佐越中守高清、②も同じく畠山氏奉行人の草部肥後守房綱、③は遊佐信教であることが判明する。遊佐信教は、「河内守源朝臣」と、一見守護かと疑わせる、もったいぶった署名である。遊佐信教は、高屋城に擁立している畠山昭高をさしおいて尊大に振舞っていたであろう様子をうかがわせる。そしてこれらの禁制によって、境内地の特権などに関する掟を発給する権限は、織田信長ではなく、依然高屋城主がもっていたことが判明する。
なお、元亀三年一〇月付で「大伴道場」に宛てた遊佐信教の定書、および遊佐高清・丹下遠守連署禁制が伝わっているが、これも次節でとりあげる。