喜志宮に伝存する禁制の第二のグループは、元亀四年(天正元、一五七二)九月付の四通である(中世七九・八〇)。元亀四年六月二五日には、遊佐信教が畠山昭高を高屋城で暗殺し、長年にわたって河内を支配してきた守護畠山氏の嫡流は、ここに断絶した。さらに七月には、将軍足利義昭が、この年三月の挙兵についで再度宇治槇島(まきしま)城(現京都府宇治市)で織田信長に反抗したものの敗れ、河内若江城の三好義継のもとに追放された。室町幕府も事実上ここに滅亡した。第二グループの禁制は、このような激変の事件の数カ月後に出されている。
遊佐信教が何故畠山昭高を殺害したかについては、軍記もの以外に所見はない。『足利季世記』によれば、遊佐信教の威勢強大で昭高を圧倒していたので、保田佐介(やすださすけ)(知宗(ともむね))ら昭高の近臣は信教を討つことを謀議していた。そのことが信教側に洩れ、事態は険悪になったので、保田佐介は自身のせいにして紀伊へ逃れた(保田は紀伊有田郡の国人)が、かえって信教とその一味は、昭高を殺害してしまった、と記している。遊佐長教いらいの、紀伊国人の実力者と河内守護代家の分裂が、畠山昭高暗殺のひきがねとなったのであろう。
保田佐介は、柴田勝家を通じて織田信長に対し、自分一身上の弁明と、遊佐信教を討つことを申し出た。元亀四年七月一四日付で信長は、保田佐介に返事し、昭高の死は無念至極だが仕方ないこと、佐介の身上については理解したこと、柴田勝家とよく相談して遊佐信教を殺すことがもっとも大事だ、と述べている(「古案」所収織田信長書状写(『大日本史料』一〇―一六))。ちなみに畠山昭高は信長の妹婿とされる。
こうして信長の支持をとりつけた保田左介は、元亀四年九月五日付で「下水分」に宛てて禁制をだしている。また宛て先はないが、天正元年九月五日付、大伝法院(根来寺)連判衆中快秀の禁制が、喜志宮文書中に伝えられている。下水分社に宛てたものであろう。この二通は年号は違うが、同日付である。足利義昭を追放した織田信長は、朝廷に要求して七月二八日に天正と改元させた。その情報が、保田左介にはとどいていなかったものとみえる。それはともかく、高屋城にいる遊佐信教と対決するため、保田左介は根来寺衆と積極的に結んだものであろう。そしてこうしたことを通じて根来寺衆は石川郡方面にも次第に影響力を強めたようで、喜志宮の社領にも根来寺衆の支配が及んでいることは、次節で述べる。
なお第二グループのうちのこる二通、すなわち元亀四年九月一〇日付、智荘厳院、および天正元年九月日付、肥前守の禁制の発信人については、よくわからない。
元亀四年七月一八日、槇島城で敗れた足利義昭を若江城まで護送してきたのは羽柴(豊臣)秀吉であった。先年信長に供奉されて上洛してきた時には、「御果報いみじき公方様」と人々は敬まったのに、今度は「貧乏公方」と指をさして嘲笑したという(『信長公記』)。足利義昭は、若江城には長滞在せず、一一月はじめには堺に出た。そして信長と帰京について交渉したが条件は折あわず、紀伊由良、さらに備後(現広島県)鞆に移って、義昭は引きつづき反信長勢力の中心でありつづける。
足利義昭が去った若江城に対して、さっそく信長軍柴田勝家・佐久間信盛らの攻撃がおこなわれ、一一月一八日、三好義継は切腹して果てた。三好氏の嫡流もこれで断絶した。三好三人衆の勢力はなお残存するものの、三好氏の河内支配も、これで終った。
喜志宮の禁制の第三グループは、この三好義継自刃直後に出された柴田勝家・佐久間信盛の禁制である(中世八一。なお佐久間伊織は信盛の誤り)。両禁制とも折紙に書かれた判物(はんもつ)の形式をとっているが、内容は軍勢の乱暴・狼藉などを禁じた通常の禁制である。