中世河内の終り

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三好義継を自刃させたものの、柴田勝家・佐久間信盛らの織田信長軍は、河内に長く駐留することはなかった。織田信長は、天正元年(一五七三)七月の将軍足利義昭の追放についで、八月には浅井・朝倉氏を討ち当面の敵を滅亡させてはいたが、一向一揆は各地で根強く抵抗していた。そして河内の三好残党や遊佐信教らは大坂本願寺と連携を深めており、信長としては、大坂本願寺との全面的対決なしに、河内の完全征服はあり得なかったのである。天正元年の一二月には、松永久秀が信長に降伏を願い出て、許されている。

 天正二年四月、大坂本願寺はまたまた挙兵し、河内では三好康長・遊佐信教らがこれに呼応して高屋城に拠った。信長は細川藤孝(ほそかわふじたか)・筒井順慶(つついじゅんけい)らに高屋城を攻めさせたが(『細川家記』)、この時も信長は河内に対しては本格的な攻勢をとらなかった。なお筒井順慶は、室町時代いらい河内にたびたび出兵してきた大和の筒井氏である。天正二年には、信長は一向一揆の一中心、伊勢長島の一揆攻撃に全力をあげ、徹底的な弾圧をもって征服した。

 そうした上で、天正三年四月、信長自身も出陣して、ついに河内攻撃が敢行された。四月六日京都をたった信長は、八幡をへて四月七日若江城に入り、ついで大坂本願寺方の付城萱振城は見向きもせず高屋城を目ざし、四月八日、信長は駒が谷山(現羽曳野市)に本陣をすえた。佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀(にわながひで)・塙直政(はなわなおまさ)ら精鋭をすぐった織田軍は、誉田八幡、道明寺河原などに順次布陣し、高屋城の城下町を破却した。高屋城衆も不動坂口で抵抗したので、信長の見下すもとで数か度の合戦があった。信長の足軽隊は谷々の奥まで放火し、その上田園の麦をなぎ捨てた(『信長公記』)。折から麦は収穫直前まで育っていたはずだが、籠城の食糧を確保させないためであろう。

 このように高屋城を痛めつけた上で、信長は四月一二日住吉へ陣替りし、天王寺をへて四月一六日遠里小野(現大阪市住吉区)へ陣を移した。そのころには畿内近国から一〇万といわれる軍勢が集まって住吉・天王寺・遠里小野一帯に布陣して石山本願寺に圧力をかけ、また信長自身も手を下して、一帯の作毛(麦)をことごとくなぎすてた。堺の近くの新堀(現堺市)には本願寺方の出城があり、三好の残党が籠っていたが、四月一九日の夜襲によって落城してしまった(同上)。

 ここにいたって高屋城の三好康長は、信長方の堺奉行である松井友閑(まついゆうかん)を通じて信長に降伏を申し出て許され、高屋城は開城した。そして信長は塙直政に命じて、高屋城以下河内の諸城をことごとく破却させた(同上)。

 摂津はすでに信長によって征服されていた。河内の諸城が破却されたことで、大坂本願寺はほとんど孤立状態となった。「大坂一城落去(陥落すること)幾程あるべからず」と『信長公記』が記しているように、大坂本願寺の落城は程近いことと思われた。四月二一日、信長は京都に帰った。

写真114 『信長記』第8 天正3年4月8日条(池田家文庫本)

 天正三年四月、織田信長によって河内の諸城の破却が命じられたことで、河内の戦国争乱、そして中世の時代は終った。嶽山城や金胎寺城は、戦国時代後半にはほとんど歴史の舞台に登場してこなかったが、国人の居城として残存していたにしても、この信長の命令によって、破却されてしまったはずである。

 こうして富田林市域をはじめ河内の中世の幕は閉じたが、新しい秩序はすぐには生まれなかった。大坂本願寺の「落去」が、『信長公記』の予想のようにすぐにはならなかったからである。河内を去った信長は、天正三年八月には越前の一向一揆をきびしく弾圧して征服、大坂本願寺はいったん降伏した。しかし天正四年に大坂本願寺は、足利義昭を軸とする反信長勢力の中心となってまたまた挙兵し、大和の松永久秀、摂津の荒木村重(あらきむらしげ)ら畿内大名の中からも信長に反抗する者があらわれた。荒木村重の謀反と同月の天正六年一〇月日付で、「富田林」に宛て、信長の武将佐久間信盛とその子信栄の連名で、三カ条の定書が出されている(中世九五)。むろん信長の意をうけているに相違なく、次節であらためて述べるように、信長としてはじめて富田林の寺内町としての特権を認めたものであるが、またまた訪れた危機の中で出されたものであることに、注意する必要があろう。結局本願寺顕如は天正八年講和によって石山から紀伊雑賀(さいか)(現和歌山市)へ退去したが、そのあと信長は河内に対して新しい秩序を十分にしくいとまもなく、天正一〇年六月二日、京都本能寺で露と消えた。富田林地方における新しい秩序は、豊臣秀吉によってはじめられることとなる。

写真115 顕如画像