享徳三年(一四五四)に、守護家畠山氏の家督をめぐる分裂抗争がはじまっていらい約一二〇年、富田林市域をはじめ河内では、断続的に合戦がくり返されてきた。それらの合戦は、時には「嶽山の麓大焼」といわれる事態もあったように、合戦には直接関係のない農民ら一般庶民にも、深刻な影響を与えずにはおかなかった。
一二〇年にもわたる争乱は、ほぼ畠山義就と政長およびその子孫たちを旗印とする両派の争いとなって展開した。畠山両流の家督となった者には、河内や紀伊を統率して戦国大名になろうとする志向はあった。しかし争乱を通じて被官を家臣団としてより強く統率することは進展せず、最後は畠山氏嫡流の断絶を以て終った。
畠山両流の抗争は、そもそもの発端から、畠山氏の家督をどうするかが最大の問題ではなく、守護代ら有力被官や河内・大和などの国人らが、みずからの勢力基盤をより強固にし、より勢力を拡大すべく、主体的に抗争に参加したものであった。そして抗争の中から、木沢長政のように、一時期ではあったが、主家を圧倒して河内を中心に独自の勢力を形成した者もあらわれた。しかしその勢力は長続きせず、河内の国人の中から、強固な勢力基盤を確立した者は、結局あらわれなかった。戦国時代の後半、細川氏・三好氏の進攻に強く抵抗し得た河内の国人はなかったし、織田信長も、何の抵抗も記録されることもなく、国人の拠城となるべき城を破却してしまったのである。
富田林市域に本拠をもつ国人では、龍泉氏らが南北朝内乱期から活躍を開始し、龍泉氏は畠山両流の争いでは義就流に属して活躍してきた。元亀・天正のころにも、龍泉壱岐守俊なる者がいた。草部(くさべ)加賀守匡家(まさいえ)・米谷勝介善勝(まいたにしょうすけよしかつ)とともに錦部郡の郡代であったかと思われ、寺家が同心しない懸案の一カ条について、三人として考えがあるから使者を派遣する、といった内容の三人連署の書状を金剛寺に宛てて出している(「金剛寺文書」三七八)。龍泉氏は、戦国争乱の間中、嶽山城か金胎寺城を維持していたのではないかと思われるが、関係史料は伝わっておらず、龍泉氏の名前すら、右の史料を最後に、史料の上からは姿を消してしまうようである。
畠山氏にとってはもとより、遊佐氏・木沢氏ら畠山氏有力被官にとっても、龍泉氏ら河内の国人にとっても、懸命に戦いぬくほかなかった戦国の争乱は、結局何の成果も生まない、あまりにも不毛の戦いであったといえよう。国人としての存在そのものも、江戸時代にも武士としてわずかに家名を存続し得た甲斐庄氏(ただし嫡流かどうかはわからない)らごく一部を除いて、一般庶民の中に埋没してしまったのである。
こうした戦国争乱の結末は、国人個々の消長には多少の差はあるにしても、河内だけの現象ではなく、大和・山城・摂津・和泉・紀伊など畿内やその周辺地域に共通するものであった。その原因としては、次の諸点があげられよう。
第一には、すでに室町時代の中期に大和一国中で一〇〇人をこす国人が衆従・国民として興福寺によって組織されているように、多数の国人が成長し、容易に中心勢力が形成されなかったことである。第二に、多数の国人を成長させた背景は、社会的な先進地として農業や手工業の生産力の高さがあるが、それはいっぽうでは農民の成長を促し、農民は村ごとに自治的な団結を強めて国人の支配には容易に服さず、国人たちは本拠地においても強い基盤を形成できなかったことである。農民支配のためには、大和の国人が衆徒・国民の身分から離れなかったように、農民を強く支配できない国人たちは、荘園領主や守護などとの関係を断ちきれなかった。また荘園の農民も、年貢・公事の未進をつづけながらも、国人に対抗するために荘園領主に依存することも多かった。第三に、政治権力の中心京都にほど近く、中央の政争が直接に波及し、河内地方にあっても合戦の勝敗だけでは決着がつかない複雑な政治情勢が生まれ、それだけよけいに不毛の戦いをくり返さざるを得なかったことである。そして第四に、畿内や周辺部が不毛の戦いをくり返している間に、東海地方で、織田信長という、全国統一を目ざす巨大な権力が急速に成長したことである。畿内や周辺部の国人たちは、好むと好まざるとにかかわらず、この巨大な権力にのみこまれざるを得なかった。
ところで、畿内や周辺部は、室町幕府・朝廷・荘園領主などしだいに衰えつつ中世的権力の、最後の基盤であった。そこでの戦国争乱は、この地域の国人らにとっては不毛の結果に終ったにしても、中世権力の最後の基盤を確実に掘りくずし、新しい時代を準備していったのである。この点に、河内をはじめ畿内や周辺部における戦国争乱の、大きな歴史的意義があるといえよう。そして、富田林地方では次節で述べるようにわずかな史料があるにすぎないが、長い中世を通じて向上させてきた自治結合を中心とする農村と農民のあり方が、次の時代の権力によって公認されることになる。畿内や周辺部における戦国争乱の真の勝利者は、農民であった、ともいえるのである。