三種の由緒書

315 ~ 317

地名としての「富田林」が確実な文書の上にはじめて登場するのは永禄初年(一五六〇ごろ)であることは、政治過程の一環として簡単ながら前節で述べた。ここでは、興正寺別院の建立と「富田林」のはじまり、当時の寺内町の様子などについて、さらにつっこんで考えてみよう。なお以下本節では、富田林はひろい市域をさす言葉でもあるため、興正寺別院寺内町について述べる場合には、「富田林」と「 」つきで記述することとする。

 さて興正寺別院の開基と寺内町の開発について、前節でたびたび引用してきた「興正寺御門跡兼帯所由緒書抜」(中世九五、以下「興正寺由緒書抜」と略称)は、その冒頭で、次のように記している。

一、河内国石川郡富田林の儀は、往古荒芝地にて御座候処、三百五ケ年以前永禄三庚申年、三好山城守様(康長)五幾内御支配の時、山城国京西本願寺宗興正寺御門跡十四世証秀上人、右芝地百貫文礼銭に差し上げ、御坊境内に申し請く。則ち御証文御座候。同四辛酉年、右芝地開発の儀、中野村・新堂村・毛人谷村・山中田村、右四ケ村庄屋株の者壱ケ村より弐人宛、都合八人罷(まか)り出で、芝地を開発し、興正寺御門跡兼帯所御堂を建立し、其の外畑・屋敷・町割り等仕り、富田林と改め、右八人年寄役に相極(あいき)められ、役儀相勤め申候。同年山城守様より諸公事免許の御証文、畠山高政様よりの御証文、其の外数通御証文、信長様よりの御制札下し置かれ候。(後略)

写真117 「興正寺由緒書抜」(表紙と冒頭の部分)(杉山家文書)

 次に、同じく前節でも引用した「古記輯録」の興正寺の項にも、次のように由緒が記されている(富田林佐藤家文書)。なお「古記輯録」には誤字と思われる文字があるが、ここでは訂正しておく。

そもそも富田林御堂開山上人は、人王百七代正親町院御宇、興正寺十四主御門跡証秀上人なり。弐百八十四年以前永禄二未年、当所弐万余坪荒芝地候所、時の城主三好山城守殿五畿内御支配の時、料足百貫文指し上げられ、一宇建立仕り給い、開基す。同三庚申年開発人御願成され、毛人谷村庄屋株の内二人、新堂村庄屋株の内弐人、中野村庄屋株の内二人、山中田村庄屋株の内二人、都合八人罷り出で、同四年諸公事御免許仰せられ、杉山・樋口・飯田・甘塩・辻・倉内・人苗・坂野〆(しめ)八人衆歳(年)寄出仕致し、芝地開発仕り、御堂守護す。寺内ニ七筋八町丁割仕り、富田林村〓<ママ>ス。時に河内国高屋城主三好山城守殿ヲ始メて、同所畠山紀伊守源高政公并(なら)びに和州信貴ノ城主松永弾正帯刀久秀殿より数通許状成し下され、信長公ヨリ元亀元庚午年御制札、大閤様より御朱判、右御代々ヨリ御許状成し下さる。(後略)

 さらに、文化五年(一八〇八)ごろの富田林村の年寄の一人であった倉内武左衛門が筆録したか所持していたとみられる「河州石川郡富田林御坊 御禁制書其外諸証拠書写」(以下「興正寺諸証拠書写」と略称。富田林杉山家文書)は、その冒頭に、次のように記している。

河州石川郡富田林ニこれ有り候当山(興正寺)兼帯所の儀は、往古同郡の内中野村・新堂村・毛人谷村・山中田村と申す脇ニ荒芝地御座候処、毛人谷ニ当山御坊これ有るニ付、当山十四世証秀上人の時代、足利将軍家えあい願われ、料足百貫文差し上げ、右荒芝地を申し請(う)けられ、永禄二年の頃(ころ)右四ケ村より弐人宛支配人申し付けられ、御坊開発致され、右料足追々上納、同五年皆納致され候ニ付、別紙写左の通ニ御座候。(つづいて永禄五年五月一一日付、松帯久請取を書写)