「興正寺由緒書抜」に記す由緒書の成立は、文中に永禄三年(一五六〇)を「三百五ケ年以前」と記すことから、慶応元年(一八六五)ごろ、同様に「古記輯録」の由緒書の成立は、天保一四年(一八四〇)ごろとなる。いっぽう「興正寺諸証拠書写」は、文化五年(一八〇八)浄谷寺(現富田林町)との古格争論にさいし作成したものと考証されているが(堀新「寺内町『由緒書』の成立と展開」(『民衆史研究』三九))、由緒書自体はいつ成立したのか、文中にきめ手はない。しかし他の二種の由緒書より早く成立したことは明らかで、由緒書の成立の順序は、「興正寺諸証拠書写」「古記輯録」「興正寺由緒書抜」の順となる。
ところで興正寺別院の開基や寺内町の開発についての由緒書はこの三種だけではなく、慶安三年(一六五〇)を初見に、他に少なくとも一三種がある。それらは、争論の訴状や課役軽減願書、興正寺別院普請願書の論拠として主張したもの、あるいは村明細帳に記されるものなどで、慶安三年いらい、細部はともかく、大筋においては、ほぼ共通した内容をもっている。つまり右に引用した三種の由緒書は、それぞれの成立のころにはじめて唱えられたものではなく、江戸時代前期いらい唱えられていたものなのである。そして計一六種のうちこの三種だけが、由緒書の根拠となる多くの文書も書写しており、いわば本格的な由緒書をなしている(堀新前掲稿)。
ただし右の三種をはじめ各由緒書とも、それぞれ作成の目的をもっており、強調点が異なっている場合がある。しかし由緒書の成立自体は、江戸時代の「富田林」の変化と密接にからんでおり、次編江戸時代の問題なので、ここでは深入りすることはさけておきたい。そして右の三種を、江戸時代の「富田林」の人々が考えていた由緒書の代表とみて、これを足懸りに、「富田林」の出発について考えてみよう。
さてこれらの由緒書は江戸時代に記されたものであるから、江戸時代的な表現があり、明白な誤伝もある。たとえば興正寺を「京西本願寺宗」とするのは江戸時代のことで、永禄のころの本願寺は大坂石山にあった。三好山城守(康長)が五畿内を支配したとするのは誤伝で、むろん三好長慶でなければならない。さらに三種の由緒書の内容は同一ではなく、しかも「富田林」の開発開始の年次、誰に礼銭を出したかなど、大事な点でくいちがいをみせている。
こうした点はあるにしても、三種の由緒書の内容は、大筋においては一致する。すなわち、永禄初年、興正寺一四世証秀上人の時、一〇〇貫文の礼銭をだして荒芝地を買収し、御堂を建立した。新堂・中野・山中田・毛人谷の周辺四村から主だった者各村二人計八人が出て、その差配のもとに境内地を寺内町として計画的に開発した。そして、新しく開発された寺内町を「富田林(村)」と名付け、八人が年寄役となって町政の運営にあたる自治都市となった。
三種の由緒書が伝える「富田林」のはじまりの状況はおよそこのようになる。この伝えのうち、開発当初の史料によって裏付けされるのは、以下述べるように一部にすぎないが、大筋においては、これらの伝えは正しいと考えられる。「富田林」は、そのはじまりに関して、きわめて貴重な伝えを有しているのである。このことを、まず指摘しておきたい。
だが伝えの細部には、三種の由緒書相互のくいちがいをはじめとして、検討すべき問題をのこしている。しかも皮肉にもそれぞれの由緒書に書写されている文書を検討することで、問題解決の糸口が与えられそうである。