問題の第一は、二万余坪といわれる荒芝地を、興正寺証秀が、いつ、誰に礼銭を出して買得したのか、ということである。「興正寺由緒書抜」は、永禄三年(一五六〇)三好山城守に礼銭を出した(三好山城守は礼銭を出した相手として明確に記されてはいないが、全体の文脈からはこのように読みとれる)と記す。「古記輯録」は、三好山城守は同様であるが、年次は永禄二年とする。これに対して「興正寺諸証拠書写」は、永禄二年ごろ、足利将軍家(義輝)とする。こうして、各由緒書とも、所伝は異なっている。
興正寺別院境内地買得の事実そのものは、二通の請取の原本が興正寺文書中に伝わることで紛れがない。また請取があることから、従来の通説は「興正寺由緒書抜」の所伝をほぼ承認し、永禄三年三好長慶から買得したとしている(脇田修『日本近世都市史の研究』ほか)。だが二通の請取は、むしろ別のことを示しているように思われる。
請取の①は、永禄三年六月七日付、「松帯久」の署名で発給されたもので、「小伊より」の銭二〇貫文の請取である。宛先はないが、興正寺に原本が伝わることを考えると、富田林道場宛と考えてよかろう。請取の②は、永禄五年五月一一日付で「松帯刀左衛門尉久」が「石川とんた林之御はう」へ宛てて発給したもので、「上様へ御礼銭百貫文の分、此五貫文にてすミ申候。右件の如し」と記されている。永禄五年の年紀は、現在は五をすり消して三とかさね書きしている。文意からも、①より早く②が出されていることはあり得ない。また、「興正寺由緒書抜」などの写本は、永禄五年と写している。後世になって、何らかの事情で五を三に改竄(ざん)したものであろう。
②の請取によって、礼銭の総額は銭一〇〇貫文で、何回かに分けて分納されたことが判明する。②は最後の請取であり、この請取の存在によって、礼銭一〇〇貫文は、各由緒書とも紛れがないわけであろう。だが、①には、第何回目の分納分であるかの記載はない。したがって総額一〇〇貫文による買得交渉がいつおこなわれたのかについては、①からは判明しない。
では買得交渉はいつおこなわれたのであろうか。この問題の検討のためには、請取の発給者である「松帯刀左衛門尉久」(①の「松帯久」はその略称)はいったい何者なのかを解明する必要がある。従来は、これを松永久秀とみるが(「古記輯録」ほか)、あるいは久秀の子久通と解し(『富田林市誌』)、ともに三好長慶の被官であることから、②の請取にみえる「上様」、つまり礼銭をだした相手は三好長慶であるとしてきた。しかし松永久秀は前述した禁制にみるように永禄三年当時は弾正少弼に任ぜられていて官途名はあわず、花押もまた一致せず、「松帯久」は松永久秀ではない。いっぽう久通は、永禄六年に右衛門佐に任ぜられている(『歴名土代』)。それ以前の官途名はわからず、左衛門尉であった可能性はあるが、永禄六年以前の久通は他の史料では所見しないようである。「松帯久」が松永久通である可能性は、きわめて低いように思われる。
とはいえ「松帯久」は現在知られている他の史料中ではわずかに一例しか登場せず、姓名とも完全には判明しない。その一例とは、真観寺文書中の年未詳一二月五日付、本間善介書状で(『八尾市史』史料編)本文中に「松帯在陣之儀候之間」云々とみえる「松帯」は、おそらく「松帯久」と同一人物ではないかと思われる。本間善介は、河内守護方の武将である。「松帯久」も永禄三年、五年当時は畠山高政方の武将で、礼銭の取次にあたった者であろう。しかし奉行人などとしてひろく文書を発給する立場にはなく、他の史料に名前をあらわさないのではなかろうか。なお①にみえる「小伊」は、興正寺方と「松帯久」の間をとりもつ人物であろう(大阪市立博物館特別展図録『大阪の町と本願寺』)。