「松帯久」をこのように考えると、礼銭をだした相手は三好長慶ではなく、畠山高政ということになる。ここで思いあわされるのは、前節でもふれた、「古記輯録」が書写している永禄二年九月の畠山高政禁制である。その内容は通常の禁制ではなく、後にあらためて述べるように、寺内町の特権を認めた定書を含んでいる。この禁制と引きかえに、境内地買得の交渉もおこなわれたのではなかろうか。なお、最古の由緒書である慶安三年(一六五〇)の訴状の記載には(杉山家文書)、九二年以前買得としている。計算上は永禄元年であるが、この年一一月までは、高政は高屋城主であった。
「興正寺諸証拠書写」は、三好氏ではなく、足利将軍家に礼銭をだしたと記している。永禄初年のころ、将軍家(義輝)が河内南部に対して、礼銭をとって興正寺別院の境内地を許可する実際の権限をもっていたとは考えられず、礼銭をだした相手は、将軍家ではあり得ないと思われる。「興正寺諸証拠書写」は、前述のように浄谷寺との争論にさいして作成されたものであり、由緒書も、将軍家に礼銭をだしたとして、格上げしたとの見解がある(堀新前掲稿)。しかし、礼銭をだした相手が畠山高政であったとすると、三好山城守(実は長慶)以外とする伝承があった可能性もあるのではなかろうか。足利将軍家は「公方(くぼう)」とよばれることが多いが、「公方」は守護をさす場合がある。畠山高政を意味する「公方」に礼銭をだした伝承があり、その「公方」が、足利将軍家と間違われたのかもしれない。なお「古記輯録」も別の個所で礼銭をだした相手を足利将軍家とし、前掲の由緒書とは矛盾した記述をしている。
境内地を許可する権限といえば、①の請取がだされた永禄三年六月七日は、三好長慶が石川郡まで進攻する二カ月前であり、長慶も未だそうした権限をもたなかったと思われる。この点からも、三好長慶説は否定される。
いっぽう、「興正寺諸証拠書写」が「永禄二年頃」から礼銭をだして荒芝地の開発に着手したと記していることも注目される。「永禄二年頃」を荒芝地を買得した年と解すれば、「古記輯録」が記す永禄二年説と近いことになる。もっとも「古記輯録」は永禄二年を三好山城守が五畿内を支配した時としていて、永禄三年を一年誤ったようにもみえる。しかしそのように簡単にきめつけることはできず、三好山城守の伝承と、境内地の買得を永禄二年とする伝承とを混同している可能性もあろう。
礼銭請取の発給者「松帯久」が誰の被官であるかと確定できればより明確となるのであるが、それは将来の研究を期すほかはない。以上の考察から、礼銭とひきかえに荒芝地を興正寺別院の境内地として許可したのは、高屋城主で守護の権限を継承していた畠山高政と推定する。またその年次も、永禄二年九月ごろの可能性が高いように思われる。