第二の問題は、「興正寺由緒書抜」が、永禄四年(一五六一)荒芝地の開発に着手し、御堂を建立、そのほか畑・屋敷・町割りをして、「富田林」と改めた、と記していることに関してである。「古記輯録」では、御堂の建立を永禄二年としており、その年次には異同があるが、寺内七筋八町の町割りをおこなったのは「興正寺由緒書抜」同様永禄四年とし、町割りをして「富田林村」と改めたとしている(ただし改名したとする部分の文字はよく読めない。「興正寺由緒書抜」などを参照して、「改名した」の意と解しておきたい)。
まず、御堂建立の年次について考えよう。前節で述べた永禄三年七月および九月の三好軍諸将の禁制は、いずれも「富田林道場」などと、「道場」に宛てて出されている(中世七五・九五)。ところが翌永禄四年九月一三日の湯川直光禁制は「石川林之御坊(富田脱か)」宛、永禄五年五月一一日の先述請取②も「とんた林の御ほう」宛と、「御坊」へ宛ててだされている(中世九五)。「道場」は寺院の形態をとらない信者の修業の場所であるのに対して、「御坊」は正式の寺院であると考えられる。永禄四年に興正寺別院の堂舎が建立されたことで、この変化があらわれたものであろう。御堂の建立年次は、永禄二年説よりも永禄四年説が正しいといえる。なお、建立当初、御堂はどのようによばれていたのかについては、「御堂」「御坊」以外には判明しない。「興正寺別院」とするほかなさそうである。
ところで興正寺別院の建立以前、富田林道場の時代にも、周辺に町場が形成され、あるいは形成されようとしていたことは、後に示す永禄二年の畠山高政禁制、永禄三年の安見宗房の定書によって明らかである。永禄三年以前の富田林道場は、興正寺別院とは別の場所にあり、永禄四年に荒芝地に移ったのであろうか。それとも荒芝地は富田林道場の周辺にあり、永禄四年の開発開始とは、すでに道場の周辺ではじまっていた町づくりを、より本格化させたのであろうか。「興正寺由緒書抜」は、永禄三年まで所在した富田林道場を無視しているので、その辺りのところは明らかにならない。しかし「興正寺諸証拠書写」は、荒芝地は中野村・毛人谷村・新堂村・山中田村の脇にあり、はじめ毛人谷村に当山(興正寺別院)御坊があったと記し、「古記輯録」も前掲の由緒書とは別の個所で、同様に記している。この毛人谷村にあったという当山御坊を富田林道場と解するなら、その道場を荒芝地に移して、本格的寺院を建立したことが考えられる。おそらくこれが事実であろう。そして御堂建立と同時に寺内町の開発に着手し、もともと地名のなかった荒芝地に、毛人谷の道場名であった「富田林」を移し、新しく村名としたのであろう。これが、永禄四年であったわけである。ただし永禄四年九月の畠山高政禁制は「富田中村」に宛てられている(中世九五)。「富田林村」ではないが、前に述べたように「富田林」宛と考えてまちがいなく、しかも「村」とあることから、開発の進行によって、住民が増加している様子がうかがわれるように思われる。
「富田林」の名称には、永禄三年までの前史がある。しかし永禄四年、荒芝地を開発して興正寺別院を建立し、新しく寺内町「富田林」村の建設がはじまった。しかもその「富田林」村は、あらためて後に述べるように、領主権の干渉をうけない、商工業の営業活動上の特権をもつ自治の町であった。こうして永禄四年は、現在につづく興正寺別院とその寺内町がはじまった、記念すべき年であるといえよう。