開発の状況

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では新しい「富田林」村の開発は、どのようにすすめられたのであろうか。残念ながら開発の状況を具体的に伝えてくれる当時の史料はない。しかし荒芝地を開発した「富田林」の出現は人々に強い印象をのこしたはずで、「興正寺由緒書抜」や「古記輯録」の記載は、多分に信用してよいものと思われる。

 「古記輯録」は、荒芝地の面積は二万余坪であること、四村から出て開発の差配にあたった庄屋株の者八人とは、杉山・樋口・飯田・甘塩・辻・倉内・人苗・坂野の各氏であること、寺内に七筋八町の町割りをおこなったことを記している。また「興正寺由緒書写」は、この八人が年寄役にきめられ、役儀をつとめたと記している。

 いっぽう元亀三年(一五七二)の柴田勝家・佐久間信盛連署判物は、「富田林惣中」に宛てて出されている(中世九五)。「惣」とは住民の地域的な自治結合をさす言葉であることは前に述べた。八人の年寄は「富田林」の惣の代表者であり、新しく移住してきた住民の自治のもとに、開発がすすめられたと考えてよかろう。

 「富田林」の出発直後における開発進行の状況については、この程度のことが判明するにすぎない。寺内町「富田林」の具体的な姿については、近世編にゆずりたい。

 なお先に引用した「興正寺由緒書抜」冒頭部で(後略)として省略した部分には、大要次のよう記されている。織田信長の禁制についで、慶長五年(一六〇〇)関ケ原合戦直後に徳川家康から禁制をうけ、年寄として預っていたが、慶長一三年片桐且元(かたぎりかつもと)の検地のさいにはこれら古証文は紛失してみえず、「富田林」は年貢地とされてしまった。大坂落城(元和元年、一六一五)後、紛失していた古証文を見付けだし、興正寺門跡へ預けた。その古証文の写しは次の通りである。このように記して、次に一五通の文書を筆写し、六通の文書目録をあげている。富田林にあるべき文書原本が、現在は京都の興正寺に伝わる事情が、これによって明らかとなるようであるが、「古記輯録」は別の所伝を載せており、文書をいつ預けたかについては、なお細かな検討が必要である。