これまで興正寺については何の説明もしてこなかったが、ここでまとめて真宗(正しくは浄土真宗。一向宗ともいう)の河内普及と興正寺について、簡単に概観しておこう。
さて真宗は鎌倉時代中期の僧親鸞(しんらん)を開祖とするが、親鸞には新宗派をおこす意志はなく、組織的な教団として出発したわけではなかった。しかし親鸞の説く教義はわかりやすく、農民など庶民の間にひろまりはじめ、寺院組織もしだいに整えられることになった。本願寺は、親鸞の娘の孫覚如(かくにょ)の時代におこされた。だが真宗寺院は、教義上の問題や人間関係から、いくつもの流派に分かれてはじまったのが特色で、戦国時代以降は真宗の中心勢力となる本願寺も、それまでは専修寺や仏光寺に圧倒されていたのが実情であった。河内方面へは、鎌倉時代後期に覚如による布教の足跡があるが、その後応仁の乱後まで本願寺の布教はなく、代って仏光寺派が河内方面に教線を伸ばしていた。
仏光寺は、寺伝によれば宗祖親鸞が山城国山科に一寺を建立し興正寺と名付けたのがはじまりで、その後中絶していたのを、七世了源(りょうげん)が再興したとされる。だが親鸞が興正寺を開基したことは確認されていない。了源は関東武士出身の熱心な真宗門徒で、元応二年(一三二〇)京都にきて本願寺覚如の門に入り、山科に建立した寺院は覚如によって興正寺と命名された。これが興正寺の起源である。ただしそれは興正寺の前史というべきもので、了源はついで教義上の問題から義絶された覚如の長子存覚(ぞんかく)の教えをうけるようになり、興正寺を山科から京都東山の渋谷(現京都市東山区)に移し、寺名も存覚によって仏光寺と改められた。こうして興正寺の寺名はいったん廃絶した。仏光寺は、了源の巧みな布教術などもあって、本願寺よりも隆盛をきわめ、河内方面でも仏光寺派がさかんであったわけである。
本願寺が急速に勢力を伸ばしはじめたのは、長禄元年(一四五七)蓮如(れんにょ)が八世宗主となってからである。応仁の乱の直前、京都東山大谷にあった本願寺坊舎が延暦寺衆徒によって破却される法難をうけたが、蓮如は越前吉崎(現福井県坂井郡三国町)に移った。蓮如は、村落の年寄衆から入信をすすめる、講や組という、自治組織である惣と同様の門徒の組織づくりをすすめる、教義を片かなまじりのやさしい文章で解説して与える、といった布教の新方式をすでにはじめていたが、吉崎に移ってから北陸方面で爆発的に本願寺門徒が拡大した。政治的衝突をおそれた蓮如は、文明七年(一四七五)越前を去り、北河内の出口村(現枚方市、光善寺)に草坊を構えた。ついで文明一二年に、山科に本願寺を再興した。蓮如の次の課題は、本願寺門徒を畿内地方に拡大することであった。
はじめ、畿内地方での本願寺門徒拡大はうまく進まなかった。延暦寺・興福寺など旧仏教側からの防害のほか、畿内の真宗信者の多くは仏光寺派であったからである。こうして仏光寺派から本願寺派に移らせる(本願寺ではこれを「帰入」という)ことが、本願寺門徒拡大の早道となった。
仏光寺側では、もとより信者の本願寺帰入を防ごうとしたが、帰入者はしだいに増加した。そして文明一四年(一三年ともいわれる)、仏光寺一二世性善(しょうぜん)の子で仏光寺をついでいた経豪(きょうごう)が本願寺に帰入した(仏光寺では経豪を門主代数に数えていない)。経豪ははやくから本願寺帰入に関心をよせていたといわれ、多くの親族や有力幹部をつれての帰入であった。蓮如は経豪に蓮教(れんきょう)の名を与え、存覚の末孫常葉台蓮覚(れんかく)の長女と結婚させ、山科に坊舎を建立させた。そしてさきの覚如の故事にならって、興正寺と名乗らせたのである。第二の興正寺の出発である。
なお、経豪(蓮教)の本願寺帰入には、本願寺と鋭く対立する延暦寺が神経をとがらせ、経豪の追放を幕府や仏光寺と関係が深い妙法院に申し入れている。仏光寺では経豪の弟経誉(きょうよ)を継嗣にたてて勢力を挽回しようとしたが、多くの末寺が本願寺に帰入したため、その勢力は急速におとろえることになった(『本願寺史』一、『真宗史概説』ほか)。