本願寺に帰入した興正寺蓮教は、熱心で忠実な本願寺末寺として活躍し、明応元年(一四九二)五月、四二歳で没した。あとは蓮教の子蓮秀(れんしゅう)がついだ。いっぽう本願寺では、門徒を飛躍的に拡大させて本願寺中興の租と称される蓮如は、明応八年八五歳の高齢で没し、蓮如の子実如(じつにょ)があとをついだ。実如は、蓮如の路線を継承しつつ教団の組織整備に尽力し、大永五年(一五二五)に没した。実如の後継者と定められていた長男・二男は早逝しており、二男の子証如(しょうにょ)が、わずか一〇歳で実如のあとをついだ。
折から畿内の戦国争乱は、前節でくわしく述べたように激化の一途をたどりつつあった。本願寺門徒は、蓮如の制止にもかかわらず応仁の乱中加賀(現石川県)において一向一揆として武装蜂起し、長享二年(一四八八)ついに守護富樫(とがし)氏を倒し、以後加賀一国は一向一揆が支配する本願寺領国となっていた。この実績をもつ一向宗門徒の武力は畿内の武将たちにとっても垂涎の的で、実如時代の永正三年(一五〇六)細川政元が河内を攻撃するにさいし、本願寺門徒の援助を強く要望した。実如は再三ことわったもののついにことわりきれず、実如は河内・摂津の門徒に出兵を依頼した。しかし河内の門徒らは「開山上人(親鸞)以来左様の事、当宗になき事」(『実悟記』)と断乎出兵を拒否した。ただし実如は細川政元との約束の手前、加賀から一〇〇〇人の浪人を呼びよせて政元勢に加勢させた。
このように実如の時代までは、畿内の戦国争乱と本願寺門徒とは一線が画されていたが、享禄五年(天文元年、一五三二)六月、前節で述べたように細川晴元の要請に応じて飯盛城の木沢長政を援けるため、本願寺はついに一〇万といわれる門徒を出陣させた。畿内における一向一揆挙兵のはじまりである、証如は時に一七歳、証如自身の決断というより、証如を補佐する下間頼秀(しもつまらいしゅう)・頼盛(らいせい)兄弟ら好戦的な家臣の決断であった。一向一揆に攻撃された畠山義尭は、石川道場に逃れたものの自刃したと前述したが、石川道場は、実如時代いらいの伝統を守って挙兵に参加していなかったものであろうか。しかし、その辺の事情を、深く追求できる史料はない。
それはともかく、河内・摂津の一向一揆は細川晴元の要請に応じて挙兵したものの、たちまち晴元と対立した。そして天文元年八月二四日、本願寺門徒と対立を深めてきた京都の法華宗徒の一揆と、晴元の意をうけた近江六角氏の軍勢らによって、山科の本願寺が焼き討ちされ、山科本願寺は滅亡した。山科にあった興正寺も、むろん焼失してしまった。戦国争乱に直接介入したことによって、本願寺は深刻な反撃をうけたのである。
本願寺は、幸い蓮如の時代に大坂石山(現大阪城一帯、現大阪市中央区)に隠居所を建てており、この地に大坂本願寺として再建されることになった。興正寺も、大坂本願寺の近傍に移った。
本願寺と細川晴元とは、結局天文四年に和解が成立し、下間頼秀・頼盛は失脚して以後河内の一向一揆は戦国争乱に積極的介入することはなくなったが、興正寺蓮秀は和解にあたって大いに奔走した。その功績によってであろう、同年興正寺に本願寺の一家衆に加えられた(『証如上人日記』天文五年四月二九日条)。
一家衆とは本願寺宗主一族の呼称で、一門一家衆と併称される。蓮如の時代からその呼称がはじまり、実如の時代に、一門衆は本願寺一族の嫡男、次男以下は一家衆として制度化された。そして一門一家衆は、宗主の代理として、布教や教団の統制にあたる、本願寺の特権的地位となった。蓮秀は本願寺の一族ではないが、この一家衆に連ることとなったのである。
蓮秀の時代に、興正寺は、畿内のほか、中国・四国・九州方面にも新たに門徒を拡大した。また蓮秀は、本願寺を代表して遊佐信教ら河内の武将ともしばしば接衝しており、『証如上人日記』によって、その活躍の一端が知られる。こうして興正寺を大いに発展させた蓮秀は、天文二一年七月一〇日、七一歳で没した(『証如上人日記』同日条、『本願寺史』一、『真宗史概説』ほか)。