蓮秀のあとをついだのが、蓮秀の長子証秀(しょうしゅう)で、証秀の時代に興正寺の富田林別院が創建されることになる。「興正寺由緒書抜」などが証秀を「一四世」と記すのは、前述した親鸞を開基とする寺伝によるもので、興正寺でも証秀を一四世と数えているが、蓮教の本願寺帰入による興正寺の再出発から数えると、三代目となる。
証秀は名前は経豪(きょうごう)、天文四年(一五三五)の生まれ。母は光善寺実順(じつじゅん)の次女妙恵(みょうえ)であるが、妙恵は天文一四年九月一日に没している(『私心記』同日条)。その天文一四年から、証秀は、はじめ「興正寺新発意(しんぼち)」、ついで「興正寺刑部卿(ぎょうぶきょう)」とよばれて本願寺に出仕している。天文二一年七月、父蓮秀の死によって興正寺一四世となった証秀は、その年一二月三日、喪中のためであろう、「シノビ」で結婚している(『私心記』同日条)。
証秀も本願寺の一家衆として熱心に本願寺に奉仕し、本願寺宗主証如、ついで顕如の信頼またあつかったことは、『証如上人日記』や『私心記』(蓮如の末子順興寺実從の日記)に、蓮秀時代にひきつづいて興正寺がたびたび登場することによっても知られる。
だが、『私心記』には永禄四年(一五六一)までの記事が伝わるものの、「富田林」における興正寺別院建立に関係する記事はみられない。「富田林」の地名・道場名も『証如上人日記』『私心記』ともに登場しない。富田林道場や別院は、本願寺の直末ではなく、興正寺末寺だからであろう。興正寺別院の建立年次は、興正寺文書によって前述のように永禄四年であることは動かないと思われるが、建立の経過については、「興正寺由緒書抜」などの伝承以外には、残念ながら知り得ないわけである。
なお「富田林」に建立されたのは、興正寺の別院であって、興正寺そのものではない。大坂の興正寺は、天文一五年八月五日に新御堂の上棟がおこなわれ、証如も見物に出かけている(『証如上人日記』同日条)。証秀は富田林別院の建立後もむろん大坂の興正寺に住んでおり、「富田林」に住んだ形跡はない。
証秀は永禄一一年三月一五日、三四歳の若さで病死した。証秀のあとをついで興正寺一五世(実際には四世)となったのは、顕尊(けんそん)である。顕尊は名前は佐超(さちょう)といい、本願寺一一世顕如(けんにょ)の次男として生まれた。そして永禄一〇年九月二六日、四歳で証秀の養子となった(「本願寺系図」)。顕如の次男がどうして興正寺の養子となったのか、くわしい事情はわからないが、この佐超(顕尊)が証秀のあとをついだことで、興正寺は名実ともに本願寺の一家衆となった。
永禄一二年八月二八日、佐超は六歳で未だ得度もしていなかったが、その稚児を脇門跡とする、正親町天皇の勅許をうけた(中世七六)。門跡とは、室町時代以降は皇族や摂関家・将軍家の子息などが出家居住する寺院に与えられた最高の寺格で、脇門跡はそれに准じる寺格をいう。もともと天台宗・真言宗や興福寺(法相宗)など旧仏教系寺院の寺格で、本願寺が希望しても勅許にならなかった。本願寺が門跡の勅許をうけたのはようやく永禄二年のことで、その一〇年後に興正寺が脇門跡の勅許をうけたのである。なお脇門跡は本願寺の末寺では他になく、興正寺は一家衆の中でも最高の地位にたつことになった。
こうして興正寺門跡は発足した。佐超は天正三年(一三七五)得度して顕尊と名乗った。そして石山合戦から本願寺の石山退去、鷺森・貝塚・大坂天満・京都へと移った本願寺の苦難の時期を、父顕如の傍にあってよく補佐した。顕尊は慶長四年(一五九九)に三六歳で没しているが、近世の興正寺の基礎は、顕尊によって定められたのである(『本願寺史』一、『富田林市誌』「本願寺系図」ほか)。