「富田林」寺内町

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さて、中世末期の「富田林」において、はたしてどの程度の町場が形成されていたものか、同時期の史料はないが、商人や職人が居住し営業する町場が形成され、あるいはされようとしていたことだけは、数通の定書が伝わることによって、確認することができる。

 定書の最初のものは、「富田林」の初出史料として前節で紹介した永禄二年(一五五九)九月日付、畠山高政禁制(内容は定書)である。原本は伝わらないが、「古記輯録」の中に次のように写されている。

  禁制

一、大坂并に諸公事免許の事

一、諸商人座公事の事

一、国質、所質并に付沙汰の事

右の条々、堅く停止せられ訖んぬ。若し違犯に於いては、速に厳科に処せらる可きもの也。仍而下知、件の如し。

     永録治(禄弐)年未九月            源高政在判

                 興正寺東(末)寺富田林

 ついで、永禄三年三月日付、美作守(安見宗房)定書が、同じく原本が伝わらないものの、「興正寺由緒書抜」の中に次のように書写されている。

  定     富田林道場

(1)一、諸公事免許の事

(2)一、徳政行く可からざる事

(3)一、諸商人座公(事脱)の事

(4)一、国質・所質并に付沙汰の事

(5)一、寺中の儀、何(いずれ)も大坂並たる可き事

  右の条々、堅く定め置かれ畢(おわ)んぬ。若し此の旨に背き、違犯の輩に於いては、忽(たちま)ち厳科に処せらる可きもの也。仍って下知、件の如し。

      永禄三年三月日               美作守 在判

写真126 安見宗房定書 永禄3年3月日(杉山家文書「興正寺由緒書抜」)

 二つの史料とも、書写の際に生じたと思われる明白な誤りや脱落がある。また永禄三年三月は安見宗房は失脚中で、年月にも誤りがあるとの意見もある(『富田林市誌』)。しかし失脚中でも、富田林方面に勢力を有していれば定書を出し得ることは前に述べたので、年月についてはくり返さない。ここで大切なのは、定書の内容である。

 畠山高政の禁制の条項は安見宗房の定書に含まれているので、安見宗房の定書について、内容を簡単に説明しよう。まず(1)は、土地からの地子銭や、人夫役など守護勢力から課する諸公事は免除する、ということである。したがってこれらを徴収する使節も入らないことになる。(2)は、徳政令の適用を除外する、ということである。徳政令とは、貸借関係を破棄する法令で、室町時代には農民らがたびたび大規模な一揆(徳政一揆)を結成して幕府に対し徳政令の発布を要求し、幕府もまた一揆の要求に押されて、徳政令を出さざるを得なかった。全国的な徳政令のほかに、守護らによって地域的な徳政令が出されることもあった。河内でも、室町時代に徳政令が発布されており、また応仁の乱の直後、畠山義就が徳政令を出したらしいことは、前に述べた。徳政令の発布によって、債務を負う者は助かる代わりに、債権者の高利貸や商人は大損害をこうむり、また、経済界は混乱する。その徳政令の適用を、除外するというのである。

 (3)は、「座公事」停止が趣旨である。座公事とは、一種の営業税のことで、中世の商人は、座とよぶ同業者集団を結成し、有力寺社などを本所と仰いで一定の座公事を納める代わりに営業上の保護をうけることが多かった。その座公事を廃止して、座の権利を認めず、商人は自由に営業してよい、というのである。

 (4)の国質・所質・付沙汰は、この時期の同様の定書などにしばしばみられる条項であるが、その具体的内容は難解で、学界でも未だ定説がない。最近の研究によれば、所質とは、「所」すなわち一定の経済圏において権益をもつ者や集団が、それを犯されたとみなす相手から、代償として所持物や身柄を押さえ取ることをいう。国質とは、所質の取り立てに、「国方」などとも称される国人がかかわることをいう。また付沙汰とは、みずからのかかえる紛争の解決を実力者に依頼することをいう、とされている(村岡幹生「『所質』『国質』考異説」(『歴史の理論と教育』八七))。(4)は全体として「停止」あるいは「あるべからず」の文言があったはずで、国質・所質の商慣習を停止して商人を保護し、また付沙汰をやめて領主の介入を廃し、紛争の解決も町の自治に任せるというのが、(4)の趣旨である。

 (1)~(4)は、当時一般の商人や職人がもっていなかった特権で、戦国大名が城下町の振興策としてだした政策と共通する。以上の四項だけでも、富田林道場に集まる人々がどのような町作りを目ざしていたかが推察されるが、(5)によって、その姿がより明確となる。すなわち「寺中の儀、何も大坂並たる可き事」とあるが、大坂本願寺の周辺には、六町(八町ともいう)の寺内町ができていた。全体堀で囲まれ、各町それぞれ木戸を設けて開閉を厳重にし、各町に番屋があって町内の警備にあたるなど、各町がそれぞれ自治の一単位をなした。最初は各町内で年貢を集めて守護細川氏に納めていたが、天文七年(一五三八)諸公事免除の特権を得、寺内町は守護の権力が介入しない守護不入の地となり、同年徳政免除の特権も得た(『本願寺史』一)。この大坂本願寺の寺内町が、富田林道場の人々が目ざしたものだったのである。なお、畠山高政の禁制では、「大坂並」は「諸公事免許」だけになっていて、安見宗房の定書とは内容がやや異なっている。

 年次が永禄三年であるかどうかはともかくとして、富田林道場の時代にすでに道場に集まる人々は「大坂並」の寺内町の建設を目ざし、守護畠山高政方と交渉して、右の定書が出されたものと考えられる。そして新しく境内地を買得し、興正寺別院を建立し、大坂並の寺内町としての「富田林」の開発がめざされたのであった。