特権の追認と後退

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興正寺別院の建設がはじまっていたと思われる永禄四年(一五六一)六月、山城守(三好康長)は、「大坂并ニ諸公事免許之事」「国質・所質并に付沙汰ノ事」「諸商人座公事ノ事」の三カ条の禁制を「興正寺末寺富田林」に宛てて出している。これも原本は伝わらないが、「興正寺諸証拠書写」の中に書写されている。「大坂并」はこの定書でも「諸公事免許」だけになっている。河内を占領した三好氏として、畠山高政時代の富田林道場に対する定書をあらためて確認したものである。なお、当時の高屋城主は三好実休で康長ではないが、康長は、「富田林」方面に勢力をはっていたのであろう。「興正寺由緒書抜」などが、誤って三好山城守が五畿内を支配していたと記すのも、三好山城守が「富田林」に大きな影響力をもっていたからかもしれない。ついで永禄五年三月、寺内町の開発をはじめたについて、当時南河内にも勢力を拡大していた紀伊根来寺の惣分沙汰所に富田林御坊から音物を贈っていることは、前に述べた。

 永禄一一年、織田信長が畿内を制圧した直後、信長の武将五人は連署の判物を「富田林」院内宛てに出し、制札(禁制)を保証した。ついで信長は元亀元年(一五七〇)、元亀三年にも、「富田林寺内中」や「富田林惣中」に対して、安全を保証した。この間信長は、「富田林」寺内町の特権にはふれなかった。信長は寺内町の特権に冷淡であったとの意見もあるが、当時南河内は高屋城主畠山高政・同昭高に安堵されており、信長は寺内町の特権にはふれなかったのではないかと考えられることは、前節で述べた。元亀三年一〇月には、高屋城の実権を握っていた遊佐信教は、次に述べるように大伴道場宛に「富田林・台(大カ)塚並」の寺内町の特権を認める定書を出している。かんじんの「富田林」には遊佐信教の定書は伝えられていないが、永禄一一年以降も、「富田林」の人々は、畠山高政いらいの寺内町の特権をひきつづき行使していたものと思われる。

 だが、天正元年(一五七三)室町幕府を滅亡させ、名実ともに政権を樹立した織田信長は、天正三年みずからも出馬して河内を占領し、諸城を破却した。河内の中世は、ここに完全に終った。畠山高政・三好康長らによって認められてきた「富田林」の寺内町の特権も、これによっていったん失効したとみなければならない。

 では織田信長は、寺内町「富田林」に対して、どのような政策をとったのであろうか。河内占領当初の、信長の「富田林」に対する施策を示す史料はない。現存史料では、天正六年にいたって、はじめて「富田林」に対する信長の方針を示す史料があらわれる。天正六年一〇月日付で「富田林」に宛て、左衛門尉(佐久間信盛)・甚九郎(佐久間信栄)連署で出された定書がそれで、むろん信長の意をうけたものと考えられる(中世九五)。この定書は原本が伝わるが、「一、つけ(付)公事・付沙汰停止の事」「一、国しち(質)・所しちあるべからざる事」「一、陣取・放火并びに竹木みだりにきり取るべからざる事」の三条からなる。第三条は通常の禁制であるのに対して、前二条は、織田政権として、「富田林」の寺内町としての特権を、はじめて追認したものである。この定書が出された背景を示す史料はないが、天正六年一〇月は、前節で述べたように、大坂本願寺に同調した荒木村重らの謀反によって、織田政権がまたまた危機に直面していた時期にある。「富田林」の人々は、元亀元年の大坂本願寺最初の挙兵のさいと同様に大坂本願寺に同調しないことを信長に申し入れ、あるいはそのような信長の要求を受け入れ、おそらくは相応の礼銭とひきかえに、この定書を入手したのではなかろうか。

写真127 佐久間信盛・同信栄連署定書 天正6年10月日(京都・興正寺文書)

 とはいえ、この定書の内容は、畠山高政・三好康長らの定書からは、はるかに後退したものになっている。信長が現に「大坂」を攻撃中であるから、「大坂並」といった定書の文言はあり得ないにしても、諸公事の免除、座公事の停止、徳政令の適用除外という、寺内町の特権の基本部分が欠落している。この定書の内容は、商業地の治安維持だけである、といってもよいものである。

 では、この天正六年の定書以降、「富田林」は織田政権からどのように取り扱われたのであろうか。確認できる史料はなく、よくわからないというほかないが、「興正寺由緒書抜」などにも書写されていないところをみると、これにつづく新しい定書は出されなかったものと思われる。「富田林」は、かつての寺内町の特権からは織田政権の定書をうけたままで、豊臣秀吉の時代をむかえたのではなかろうか。