石川と千早川の合流点南側に位置する大伴には、中世末期、大伴道場があった。大伴道場は、寺伝によれば平安時代の創建といわれ、高野山城主畠の甲斐守高眼が再興したというが(『富田林市誌』)、信用の限りではない。しかし本願寺八世蓮如筆と伝える六字名号を伝存しており、蓮如のころから、富田林道場と同様、一向宗(浄土真宗)の道場となったものであろう。
この大伴道場に宛てて、元亀三年(一五七二)一〇月、次の二通の定書、禁制がだされている。史料編に採録せず、かつは富田林道場宛や次に述べる喜志宮宛のものとも文面がやや異なるので、二通とも全文を引用しておく。
定 大伴道場
一、諸式富田林・台(大ケ)塚並の事
一、山林・竹本等、これを除き置く事
一、矢銭、兵粮米相懸く可からざる事 付けたり寄宿免除の事
右条々、異(違)儀有る可からず。若し違犯の輩に於いては、成敗を加う可きもの也。仍って下知、件の如し。
元亀三年十月日
河内守(遊佐信教)源朝臣(花押)
禁制 大伴道場
一、軍勢・甲乙人濫妨・狼藉の事
一、諸職(式)に於いては、富田林・大ケ塚並の事 付けたり徳政の事
一、陣取り・矢銭・兵粮米を相懸くる事 付けたり山林・竹木・放火の事
右条々、停止せしめ訖んぬ。若し違犯の輩に於いては、速やかに厳科に処せらる可きもの也。仍って下知、件の如し。
元亀三年十月日 越前守(遊佐高清)(花押)
越中守(丹下遠守)(花押)
河内守源朝臣は、当時高屋城にあって畠山昭高を擁していた遊佐信教、越前守遊佐高清・越中守丹下遠守はその奉行人であること、およびこれらの定書・禁制がだされた政治的背景については、すでに前節で述べたのでくり返さない。
この二通は、「定」「禁制」と書き出しは異なるものの、内容は同じで、通常の禁制の条項と、定書の条項とをもっている。定書の部分は一カ条だけであるが、「諸式に於いては、富田林・大ケ塚並」と記されていることが注目される。なにごとも富田林並というのは、「富田林」に与えている寺内町の特権を、同様に認める、ということにほかならない。大伴道場もまた、「富田林」のように、公事免除以下の特権をもつ寺内町の建設をめざし、この定書・禁制の下付を願いでたものと考えてよい。
もっとも遊佐信教が「富田林」にどのような特権を与えていたのか、興正寺文書中には遊佐信教発給の定書・禁制は伝わっておらず、明らかにならないが、「富田林」に対しても、むろん寺内町の特権を認めていたはずである。なお遊佐信教と二人の奉行人は、元亀三年八月に、次項で述べるように、喜志宮に対しても特権を認める定書・禁制をだしているが、それには「富田林並」の文言はない。「富田林並」は、開発がすすむ「富田林」の様子を目のあたりにした、大伴道場の人々の強い希望であったのかもしれない。
なお、大ケ塚は、大伴のすぐ東隣りである(現河南町)。戦国時代末期、根来寺衆が城を築いていたが、永禄一一年(一五六八)に撤退し、根来寺衆代官所の菩提寺であった善念寺が、一向宗に改宗して顕証寺末寺になったとされる(のち顕証寺と改称)。大ケ塚も「富田林」同様に寺内町の開発をすすめていたことが大伴道場宛の定書・禁制によって判明するが、大ケ塚自体には、当時の寺内町開発の史料は伝わらない。
ところで大伴道場の寺内町は、その後順調に開発がすすまなかった。それどころか、天正年間には、道場の坊舎も破壊されてしまったという。その原因は不明というほかないが、道場はやがて円照寺となり、その後も維持された(現在は廃寺)。