喜志の寺内町

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大伴道場が「富田林並」の寺内町の開発を目ざしていたころ、喜志の地方でも、喜志宮(正しくは美具久留御魂神社。中世では下水分社とよぶ)を中心に、寺内町を作ろうとする動きがあった。もっとも神社を中心とするから社内町というべきであるが、後述のように当時の喜志宮は仏教色が強く、喜志寺、あるいは下水分寺ともよばれており、寺内町と称してよいものである。

 史料は、前節で発給人についてだけ考察した、喜志宮に蔵される元亀三年(一五七二)八月の三通の禁制である(中世七八)。越前守(遊佐高清)・越中守(丹下遠守)連署禁制の文面は、次のとおりである。

  禁制      下水分神境

一、諸公事免許の事 付けたり方六町の事

一、徳政の事

一、陣取・矢銭・兵粮米の事 付けたり山林・竹木の事

右条々、堅く停止せしめ訖んぬ。若し違乱の輩に於いては、速やかに厳科に処せらる可きもの也。仍って下知、件の如し。

      元亀三年八月 日          越前守(遊佐高清)(花押)

                        越中守(丹下遠守)(花押)

写真129 遊佐高清・丹下遠守連署禁制 元亀3年8月日(美具久留御魂神社文書)

 他の二通は、「禁制」ではなく「定」ではじまり、「方六町の事」の第一項の付けたりはなく、第二項の徳政の付けたりに「欠所の雑物等は神社修理に相付く可き事」など文章に若干差はあるが、「諸公事免許」以下の項目の趣旨は同じである。

 第三項だけは、配下の軍勢に対する禁制であるが、第一・二項の諸公事免許と徳政停止とは、「下水分神境」内の住人に対して特権を認めたもので、内容からいえば「定書」である。そして「下水分神境」は、「方六町」(六町=約六五四メートル四方)と範囲が明示されていることが注目される。

 喜志のあたりは石川と大和川の合流点に近く、大和に通じる竹内街道も通じていて交通の要衝にあたり、また喜志宮の門前町としても、商人や職人が住みはじめていたのであろう。喜志の住人たちはむろん「富田林」や大坂本願寺寺内町が獲得している特権については十分知っていたはずで、この禁制(定書)の発給を高屋城主に要請したものと考えられる。元亀三年ごろには、喜志の人々も大伴道場の人々と同様に「富田林」のような町作りをたしかに目ざしていたのである。

 だが、元亀三年には得ることができた特権は、「富田林」の場合とはちがって、元亀四年以降、新しい権力者によって確認されることはなかったようである。喜志宮には元亀四年(天正元年)の禁制または判物六通が所蔵されているが(中世七九~八一)、いずれも「当手軍勢・甲乙人濫妨狼藉」停止以下の通常の禁制であって、諸公事免除・徳政停止の特権にはふれていない。天正元年(一五七三)一一月日付、織田信長の武将佐久間信盛の判物(内容は禁制)は「岸(喜志)寺内 惣中」に宛てられている。「惣」とは前項で述べたように自治組織の名称で、喜志寺(喜志宮)にも寺内町の自治運営をになう組織ができていたことを予想させる。しかし織田信長政権は、「富田林」に対しては前述のように天正六年には後退した形ながら特権は認めたものの、喜志には認めなかったようで、何の史料ものこされていない。結局喜志の方六町もあった寺内町は、元亀三年の禁制(定書)に登場するだけで幻のように消えたことになるが、それは何故であったのか、大伴道場同様に、解明する史料はない。