一二点の神田の史料

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さて喜志宮には、天正四年(一五七六)から一二年にかけて作成された、一三点(うち一点は重複した写本なので、実質一二点)の神田(社領田)に関する史料がのこされている。その全文を史料編に掲載しているが(中世八二~九二・九四)、一二点を内容によって分類して一覧表にしたのが表6である。内容の上からは三つに分類されるが、神田畠一筆一筆を書きあげ、所在地、喜志宮に納付する年貢高のほか、その田畠が他に負担する課役、年貢納付者である作人名などをくわしく記しているのが、大きな特色である。中世最末期のこの地方の農民の具体的な姿を知らせてくれる、貴重な史料をなしている。ただし、喜志宮の神田に限定された史料であるから、村落規模で農村の実態を明らかにすることはできないが、当時の田畠をめぐる複雑な権利関係や支配関係を知るには十分な史料である。また中世末期の喜志宮の姿も、これらの史料によって、かなり具体的に知ることができる。

表6 喜志宮所蔵神田関係史料一覧
分類 文書名 年月日
指出 86神田指出案(支子分カ) 天正8.閏3
87神田指出案(前欠) 天正8.9.13
92神田指出案(後欠) 天正11.2.15
年貢納帳・取帳 83大般若方納帳 天正4.10.14
84神田平尾山谷納帳 天正6.10
85神田納日記 天正6.11
89神田納日記 天正10.12.15
94御蔵米取日記 天正12
91神田取帳 (未詳)
算用状 82大乗会方算用帳(前欠) 天正4.3.23
88大乗会方算用帳 天正9.11
90大乗会方算用帳 天正10.10

注)1.文書名の頭につけた数字は、史料編の文書番号。
  2.文書名は、例えば「下水分社神田指出案」とすべきであるが、「下水分社」はすべて省略した。
  3.史料編の文書名は一部修正した。

 はじめの分類の指出(さしだし)とは、戦国時代から織田信長の時代にかけてひろくおこなわれた検地の一種で、田畠の面積、作人、年貢高などを寺社などに自主的に申告させたものである。喜志宮の指出についてまず注目されるのは、天正八年の指出案二点は、根来寺衆から徴されたものであることである。八六の指出案の末尾には、「根来寺衆へ十分一御取候ハんトノ時之指出之案文也」と記され、八七の指出案の末尾にも「根来寺衆神田御尋時」と記されている。天正八年当時、河内はむろん織田信長政権の支配下にあったが、少なくとも喜志宮の神田に関しては、根来寺衆が一〇分一(年貢の一〇分一の意味であろう)を徴収する権利を認められていた。そして根来寺衆は、きびしい態度で喜志宮に対し指出の提出を命じたことは、指出の内容が、神田一筆一筆についてくわしく書き上げていることから推測される。

写真130 下水分社神田指出案(末尾) 天正8年閏3月日(美具久留御魂神社文書)

 根来寺衆がどうして一〇分一を徴することができたのか、明確に示してくれる史料はない。年貢・公事の徴収を請け負う代官の収入が一〇分一である場合が多いことを考えると、根来寺衆はあるいは神領の代官請をおこなっていたのかもしれない。前節で述べたように、根来寺衆は戦国時代末期いらい河内南部にも進出し、天正元年九月にも下水分社宛に禁制をだしている。根来寺衆は織田信長に協力的であったため、河内南部での根来寺衆の既得権が、信長によって公認あるいは黙認されていたのではないか、と思われる。いずれにしても、天正八年、根来寺衆は喜志宮神田から一〇分一をきびしく取り立て得たことはたしかな事実で、南河内の政治過程にとっても重要な史料となっている。

 九二の神田指出案は後欠で、誰が徴したかは明らかではないが、作成された天正一一年二月一五日には、河内の支配者は羽柴(豊臣)秀吉に替わっていた。指出の内容は中世のままであるが、次編近世編でくわしく述べられる秀吉による検地の、最初のものとなった。