喜志宮と喜志寺

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指出が完全にのこっていれば喜志宮神田の全貌が判明するはずであるが、八六の指出案は支子(喜志)分かと推測される部分のみ(冒頭は「下水分御神田支子[  」と「支子」の下の文字が欠失している)、八七の指出案は前欠で三町歩ほどの田地の明細が欠け、九二の指出案は後欠で、ともに全貌をとらえることはできない。なお喜志村は江戸時代には石高一八〇〇余石の大村であるが、八六の指出案に記される田数は七町二反歩余で、神田は喜志村にあったとしても、そのごく一部が書き上げられているにすぎない。このような神田指出案ではあるが、八六・八七の指出案によって、喜志宮とも喜志寺ともよばれているその実態について、かなり具体的に知ることができる。

 まず、「下水分御神田」などと記されているように、もとより下水分社は神社である。八七の神田指出案には、神主給一石二斗三合の田地九筆が記され、正月籠(こもり)、三月・九月・一二月の朔幤(さくへい)(朔日(ついたち)に神前に供物を供える神事)の各下用田(費用を支出する田地)も記されている。さらに「九月御神事」の費用合計九石五斗を社領から出すことが記され、その明細も記されている。九月神事は朔日の神事始からはじまり、一五日が中心の日で、二三日に終わる。一五日には、二石八斗八升の餅米、二斗の神酒料、二斗の灯明料、四斗の土器料、一斗の舞台敷料、五斗の薪木代などが支出され、また伶人(れいじん)(楽人)禄物一石二斗も支出される。九月神事は盛大なお祭りであったらしいことが想像される。

 だが、神主は下坊とよばれる僧侶であった。八六の神田指出案でも、一石の「神主給 下坊へ」と記されている。さらに、八七の神田指出案では、それぞれ田地約五反、得分一石五斗の南坊・大門坊・地蔵院、それぞれ田地約三反、得分六斗~八斗五升の奥坊・西福院・多門院・新坊、合せて七人の「寺僧衆供米(料)」が書き上げられている。なお、八六の指出案では「寺僧供領」とよび、田地と得米の数字が八七の指出案とは若干異なる場合がある。下水分社には少なくとも七人の僧侶がおり、神田のうちから供料の配分をうけていたのである。天正八年当時神主であった下坊を加えると、僧侶は八人になる。