これら僧侶らによって、下水分社でおこなわれる法会に「下水分宮大乗会」がある。大乗会とはもともと平安時代に京都の法勝寺ではじまった天台宗の重要な行事で、五部大乗経を講説論義し、天台宗学僧の登龍門とされていた。ただし応仁の乱で法勝寺が罹災し、京都では廃絶していた。いっぽう、聖徳太子をまつる太子町の叡福寺では、毎年四月一一日(旧暦二月二二日)の聖徳太子忌日におこなわれる法会を、室町時代いらい大乗会とよんでいる。喜志宮の大乗会はいつおこなわれるのかも判明しないが、あるいは叡福寺と同様の法会かもしれない。
水分宮大乗会のため、神田の中から一町三反大の田地、七反二二〇歩と三カ所の畠が配分されている。そこからの収入は四~六石程度(年によって異なる)であるが、大乗会方として独自の年貢徴収をおこなっている。田畠一筆一筆を書きあげて年貢徴収高を記し、それに要した費用など必要経費の明細を記し、それを差引して残りを大乗会に集る人々に配分したことを示す、大乗会としての収支決算書が、大乗会方算用帳で、三点がのこされている。天正九年には人別一斗八升五号ずつを一五人に配分し、天正一〇年には二石二斗五升を「十五ノ預リ」としている。大乗会に集る人々は一五人であったらしいことが判明する。ただしかんじんの大乗会の日付などの記載はない。あるいは大乗会の行事そのものはすでに中絶し、大乗会料田からの年貢の徴収と配分、という会計処理だけがおこなわれていたのかもしれない。
注目されるのは、各年の算用状の末尾に、年預衆が署名し、次年度の年預名も記されていることである。三点の大乗会方算用状によって計五カ年分の年預が判明するが、一覧表にすると、表7のようになる。
天正4年 | 天正5年 | 天正9年 | 天正10年 | 天正11年 |
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喜志方 | 喜志 | 喜志 | 喜志 | |
下之坊 | 奥之坊 | 大門坊 | 多門院 | 南坊 |
地蔵院 | 下之坊 | |||
上之村 | 上之村 | 上村 | 郡上村 | 上村 |
中之坊 | 曼茶羅院 | 中坊 | 曼茶羅院 | 藤坊 |
山城分 | 山城分 | 山城 | 山城 | 山城 |
東之坊 | 藤之坊 | 藤坊 | 東之坊 | 同藤坊 |
中村 | 中村 | 中村 | 中村 | 中村 |
延福寺 | 延福寺 | 延福寺 | 延福寺 | 延福寺 |
年預とは、一年交替でつとめる世話役をいい、各年の年預が算用状の末尾に花押を書いている。喜志方は、天正五年から九年の間に二人から一人に減少しているが、天正八年当時神主であった下坊と、神田から寺僧供料を配分されていた七人が交替でつとめている。喜志方のほか、三村からも年預がでているが、山城は現河南町山城である。中村は現富田林市中野ではないかと思われる。上之村(郡上村)については現在地は判然としないが、いずれ喜志宮近傍であろう。これら三村から各村一人の年預が出るが、上之村は中之坊と曼荼羅院が、山城は東之坊と藤坊が、それぞれ交替でつとめており、大乗会に参加するのは二人しかいなかったようで、天正一〇年には山城の藤坊が上村の年預をかねている。また中村は延福寺一人が、毎年年預をつづけている。
上村以下三村と喜志宮との関係ははっきりしないが、これら三村の寺僧も下水分宮大乗会に参加することで、供料の配分をうけているわけである。
次に「大般若方」があった。大般若経(大般若波羅蜜多経)を転読する集団で、喜志宮には六〇〇巻の大般若経があったはずである。関係史料は八三の天正四年大般若方納帳一点があるだけで関係した寺僧名もわからないが、納帳は下之坊が作成している。下之坊はこの年大乗会方の年預であるが、大乗会方算用帳に署判した年預は、大乗会方のみならず、下水分社寺僧集団の年預であったのかもしれない。なお八九の神田納日記は、僧名である賢海が作成しているが、賢海の坊名はわからない。
神田に関する史料から判明する喜志宮と僧侶との関係はおよそ以上のとおりで、神主が大乗会方の年預もつとめる下(之)坊であること以外に、僧侶と神事との関係もよくわからない。しかし、中世は神仏習合の時代で、神社か寺院かは判然としない寺社があるが、喜志宮もそうした神社の一つで、喜志寺とよばれることもある程に仏教色の強い神社であった様相の一端は、明らかになったと思う。