神田の年貢と諸負担

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さて、一二点の神田関係史料は、天正一二年(一五八四)の九四御蔵米取日記を除いて、記載内容に精粗の差はあるものの田畠一筆一筆を書きあげて、所在地、面積、年貢を負担する作人名のほか、次に述べる地主名や、喜志宮へ出す年貢のほか田畠各筆が負担する諸引物(課役)などを書きあげている。九四の御蔵米取日記にも末尾に田地一筆別の記載がある。まず神田の年貢と諸負担について考えよう。記載を例示すると、たとえば次のとおりである(中世八七)。

          四升   定引

          三合三勺 反別

(1) 池しり一段 弐斗代内 五合   杉引  ミヤ孫二郎ゝ

          壱升   池引

          五升   下

       (得)彳九升一合七勺

  (2) あらけ一段 六斗代内 諸引物在之。定弐斗七升  大ふけ与三衛門尉ゝ

 指出なので実際の収納を示したものではないが、逆に年貢や諸引物のたて前が示される例となる。(1)は、小字池しりにある一段の田で、作人はミヤの孫次郎(名前の下の「ゝ」は前欠のため意味不明)が作人として年貢と諸引物を負担している。この田の年貢は二斗代(斗代といい、田畠一反別の年貢数量を示す。面積一反で斗代二斗代では、年貢高は二斗である)であるが四升の定引以下五件の引物があり、神田としての得分は、これらを差し引きして、半分以下の九升一合七勺であることを示している。(2)は、諸引物の明細を明示しないものの、「諸引物在之。」と記し、これを差し引きして定(得分)が二斗七升であることを示している。

 指出であるから引物を特に過大に申告しているわけではなく、神田納帳や大乗会算用帳でもこのような引物がみられ、得分は斗代(公式の年貢率)の過半数をこす場合もあるが、はるかに低い場合も多い。ただし年によって引物の額はかなり変動したようである。

 (1)に明細が示される引物のうち、「池引」は用水池の費用負担と思われるが、「杉引」は他にも例が多いもののよくわからない。「定引」はきまった引物、「反別」は田地一反別一定の数量で課される臨時税で、「反銭」とよんでいる年もある。「反別」「反銭」は徴収した者がいるはずであるが明示されない。この指出をもとに根来寺衆が一〇分の一を徴したとすれば、こうした引物の一項に入るかと思われるが、現存史料ではその明示はない。なお「定引」や「反別」は、権力者が徴したのかもしれない。

写真132 下水分社神田指出案(部分)天正8年9月13日 美具久留御魂神社文書)

 年によっては、喜志宮から「たう(堂カ)米」を課したため、引物を差し引いても斗代を上まわって喜志宮として得分があることもある。天正一〇年の八九神田納日記はその一例で、冒頭の二行は次のように記されている。

(3)キタシリ一反 二斗下地ヒロ川寺 反別 三合三勺 定引一升得\二斗七合七勺 杉 五合 ミや宗二郎衛門たう米二升六合共

(4)マセカ口一反 二斗下地用たうし分 反別 三合三勺 定引二升得\二斗七合七勺 杉 五合同作人たう米二升六合共

 この納日記では引物は定引、反別、杉の三件で、「定引なし」の田もある。「たう米」は一部にしか課されなかったようであるが、それが課された田では、得分は斗代に近いか、若干上まわっている((4)は違算があるようで、定引二升なら差引合計得分は一斗九升七合七勺である)。

 ところで斗代は、(2)が六斗代であるのに対して、(1)(3)(4)はいずれも二斗代で異常に低い。斗代は二斗、三斗代の低斗代が多い一方、七斗代、八斗代、九斗代の高斗代もあり、全一二点中の最高は一石代である(中世九〇)。斗代の差は地味の良し悪しによるが、中世ではその田地に対してもつ権利の強弱によることもある。つまり喜志宮の神田に、他の寺社なども、領主あるいは地主として年貢を課している場合もあるからである。

 いずれにしても一二点の神田関係史料に示される年貢や諸課役(引物)を十分に解明し説明することは困難というほかなく、田畠一筆一筆によって異なる、複雑怪奇なものであった。