作人と地主

355 ~ 359

次に、作人と地主について考えてみよう。(3)の宗二郎衛門は、すぐ次の行の(4)では「同作人」と書かれており、ここに記される人名は作人であることは明らかである。そして作人として年貢と定引・反別などの諸課役を負担することから、こうした帳簿に名前が記されるわけである。中世前期では、年貢の負担者は一般に地主であったが、しだいに作人の直納にかわり、地主は田畠の経営には関与せず、たんに加地子を徴するだけの者となったことは、すでに述べた。一二点の史料に記される作人は、一部の例外を除けば、大半は姓をもたない、農民的名前である。何某殿と殿をつけてよばれる侍身分の者は、「石川はやしとの」ただ一人がみられるだけである(中世八九)。一二点の史料に記された数十人の農民の名前は、富田林地方における中世農村の達成を示すものであるといえよう。

 なお農民の名前には、(1)の孫二郎や与五郎などの名前のほか、(3)の宗二郎衛門のように衛門をつけるもの、弥二郎大夫のように大夫をつけるものの、三つの型がある。衛門・大夫は、若年からの名前ではなく、村の中堅から老人になり、衛門成、大夫成の儀式をへて改名することが多く、村の自治=惣の中心となる人たちであることも、すでに述べた。また、ごく一部であるが、「くりこけい」、「与五郎こけい」など「こけい」がみられるが、「後家」であろう。女性の名前は亡夫の後家としてしか登場しないが、女性が作人として名請けしているめずらしい例である。

 ところで作人として記されている者は、作人としての権利をもつ者(作職所有者)であって、直接耕作者に限らないことは、この時代でも同様である。大乗会方年預の一人延福寺が、大乗会方料田の一筆に作人として登場する。さらに下之坊は、大乗会方・大般若方を含め、一〇筆近い田畠の作人となっている。天正四年(一五七六)、下之坊みずから年預をつとめていた時、三筆の畠計三斗五合の年貢を未進し、結局一斗五升を納めただけで約半分を免除してもらっている(中世八二)。この三筆のうち二筆の作人名は、天正九・一〇年には下之坊から与三衛門・弥衛門に代っているが(中世八八・九〇)、天正四年当時でも、下之坊は年貢を納める作人ではあっても、はたして耕作していたかどうかはわからない。天正一二年にも「下坊てさくふん(手作分)」の一括のもとに、三筆の作人名を付けない田、および神四郎の名をつけた一九筆の田が一括されていて、下坊は手作地をもっていたようにもみえるが(中世九四)、その「手作」も文字どおりの手作りかどうかは疑わしい。それというのも、

(5)同所(マセカ口)一反下地 賢海はいとく(買得) 反銭・ほりせん同なり。サヘイ(朔幣)田二斗 ミやノ下坊の神介

のように、「下坊の」もとにいるとの注記のもとに、神介のほかせん二郎が作人として登場することがあるからである(中世九一)。神介・せん二郎は完全に自立した作人でない可能性が高く、下坊は他に名前がでない下作人をかかえていた可能性もある。

 さらにはまた、

(6)ミヤノ南一反 反銭、諸役なし。一色 正月二日北堂庄厳田   寄合作 

のように、作人は一人ではなく、数人の寄合である場合もある(中世九二)。それだけこの田の作人の個人としての権利は弱いわけである。

 作人とは作人職をもつ者である以上、下坊の場合や寄合作もあり得るのであるが、それはしかしごく一部にとどまり、圧倒的多数は、直接耕作に従事する作人であると考えてよいように思われる。

 次に、(3)の左肩につく「下地ヒロ(寛)川寺」、同じく(4)の「下地用たうし分」などの注記についてである。この注記は八五、八九の神田納日記、九一の神田取帳、および九二の神田指出案のみにみえるもので、年貢等収納の台帳かと思われる九一の神田取帳がとくにくわしい。年貢収納上必要な注記であることが判明する。「下地」(田畠の実際の土地)について、何らかの収納の権利をもつ寺社などを記したもので、その権利の内容は必らずしも一様ではない様であるが、(5)のように売買されるものであることからすると、地主職を中心とすると考えてよい。(3)の寛川寺は、寄進か買得かによって地主職を獲得したものであろう。もっとも「下地ヒロ川所 サクあり。三年一とツヽ二百文」などと記される「サクあり」は難解であるが、「作人として加地子分を負担する」と解釈しておく。寛川寺・石川寺(叡福寺、現太子町)関係が若干目立つが、「下地中村ミヤへのとうろうてん(灯籠田)」「中村ヲトなしう(老人衆)へとる」などもあり、中村にも老人衆の組織があったことが判明する(中世九一)。(5)の賢海は天正一〇年の八九神田納日記の作成者であるが、九一神田取帳では、計七筆を買得している。経済的に裕福な寺僧だったのであろう。とにかく売買行為によって地主職は替るもので、地主職はきわめて錯綜したものとなっている。

 そのいっぽうで、(6)のように「一色」あるいは「イツシキ」の記載が目立つ。一色(一職)とは、地主職・作職をあわせてもつことをいう。地主職所有者が作職をあわせてもつこともあるが、作人が地主職をあわせもつことが、この時代に増加しつつあった。(6)の場合は、作人は寄合作で、正月二日北堂荘厳田が地主職と作職とをもち、作人を固定しなかったのかもしれないが、次の場合は作人が同時に地主職をもつと考えてよい(中世九二)。

(7)山のはな 小 一色 反銭なし。        ミヤ二郎三郎

ただし九一の神田指出案では一色に限って(6)(7)にみるように「反銭諸役なし」「反銭なし」と書かれており、前述した諸負担とからめて解決すべき課題をのこしている。

 一二点の神田関係の史料は、中世最末期の複雑怪奇な貢租・課役と、土地に対する権利関係を如実に示してくれる。そうした中から、残念ながら史料の性格上村単位の集計はできないが、数十人の作人が登場し、一色の権利をもつことで中世の複雑な土地関係を清算する方向も、曙光が見えはじめている。こうした、河内をはじめ畿内や周辺部の農村と農民のあり方を前提に、次編近世編の歴史ははじまることになる。

写真133 下水分社神田納日記帳(部分)天正10年12月15日(美具久留御魂神社文書)