富田林市の中央部を南北に石川が流れており、それによってかつての石川郡と錦部郡が境されている。両地域はともに古代から交流もあり、両者の文化や地域性がいちじるしく異なるという状況もない。ただし地理的には、西側地域には羽曳野丘陵があり、東地域には嶽山が位置することでは対照的でもある。
また歴史的にみると、石川西岸には中世興正寺別院を中心として寺内町が形成され、その繁栄が近代までつづいていたのに対し、東岸では、ほぼ前後したころに嶽山山頂部に設置されていたとみられる嶽山城が陥落し、南北朝時代以来の城の歴史に終止符をうった。同時に古代に創建されて以来、その繁栄を誇ってきた龍泉寺の華やかな歴史も戦禍によって大半が灰燼に帰した段階でもあった。
すなわち中世興正寺別院は、「富田林」の地名の由来ともかかわっており、以後の歴史に大いに登場し、その役割を十二分にはたしている、まさに誕生から発展の段階にあたる。反面、室町時代末期、戦国時代の幕開けともいうべき、畠山氏家督争いに端を発した内乱に巻き込まれ、その一〇〇〇年余の歴史の命脈を閉じようとする危機に面している寺院が、龍泉寺であった。この石川を挟んで対照的な歴史をたどってきた寺院のうちの後者について、スポットを当てようとするのが本節である。とくに古代・中世の歴史については史料が限定され、大半は残されていないのが現状である。龍泉寺の場合も同様である。幸い近時までおこなわれてきた発掘調査の成果があり、それらによって史料の欠を補うことも、十分ではないが不可能ではない。以下、地下から掘りだされた遺構・遺物から、龍泉寺の中世について記述することにしよう。