二 発掘調査に資料を求めて

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 文献史料は、直接寺について触れたもの、間接的に触れられているものを含めて、ほとんど残されていない。わずかに『春日神社文書』や『弘法大師御行状集記』によって、平安時代後半ごろの、また『元亨釈書』や「龍泉寺金剛力士像胎内銘」などから鎌倉時代の、さらに『太平記』や『大乗院寺社雑事記』『多聞院日記』によって南北朝~室町時代というように断片的に、龍泉寺の存在をうかがい知ることができるのみである。それらは歴史の流れとしてとらえるには、あまりにも少なく、単にその期間、寺が存在していたということを知る程度である。

 いっぽう、境内各所の地下からは、歴史の流れを物語る遺構・遺物が出土している。すなわち地下の埋蔵物に関しては、発掘調査をおこなえば、そのつど新しい知見が得られるのである。

 龍泉寺を対象としておこなった発掘調査は、昭和四九年(一九七四)二~三月の最初の調査いらい、すでに六度を数える。その調査の原因は墓地の造成とか道路の拡張、水道施設の設置など様々であるが、そのつど本格的な調査がおこなわれ、その成果である報告書が発刊されている。ただし調査とはいっても、特定の地域あるいは全域を長期間かけて、あるいは興味のある部分のみ自由に調査をおこなえるということは、様々な制約から不可能に近い。したがって必ずしも興味の示す目的の箇所を中心に調査したということでない。ともあれ、これまでに蓄積されてきた発掘調査の成果から、文献資料では得られない資料も発掘されたと考えている。以下、その成果を基礎にして、中世以降の龍泉寺についてみることにする。