江戸時代の寛文九年(一六六九)五月朔日に作成された境内および周辺絵図が、現在寺に残されている。これは内容から、寺と地元などとの土地の所有関係を明らかにするために作成されたものである。そこには寺の領地すなわち免除地と領地が異なる色で示され、また集落共有地、さらに個人の所有地の明示区分がおこなわれている。とくにそこにえがかれた内容には、境内地と伽藍の建物配置のほか、大木の本数などの配置関係、さらに平坦とみられる箇所に、かつての坊院名が記録されていることがある。現在の字名から、これらの名称を拾い上げることは困難であるが、この絵図には明瞭にかつての名称と配置関係が示されているのである。
絵図に記された名称が、はたして実際の坊院所在地と合致するのかどうかというのが、まず問題であった。しかし幸か不幸か近年の開発は当該山地にまで波及し、先の絵図に示された地域の発掘調査もおこなわれるようになってきた。また当初は手探りであった発掘調査も、徐々に建物遺構に遭遇するようになってきた。それらの建物遺構と絵図との関係をみると、ほぼ一致していることが明らかとなった。あわせて現状の地形的な関係からも、絵図を参考にしながら、かつての坊院の所在を推定するようにしていった。これらの作業を通じて、また発掘調査をへて明らかになっていった坊院名は、以下の如くである。
東の坊……史料館建設にともなう調査。
西の坊……石垣残存、現つつじ園内。
千手院……水道工事にともなう調査。
脇の坊……道路工事にともなう調査。
満福院……墓地造成にともなう調査。
山の坊……墓地造成にともなう調査。
北の坊……墓地造成にともなう調査。
西方院……墓地造成にともなう調査。
小福院……墓地造成にともなう調査。
摩尼院……道路工事にともなう調査。
奥の坊……水道工事にともなう調査。
また明らかに平坦地があり、遺物の出土もみられる部分の坊院には次の各地域がある。
阿弥陀院……平坦地、遺物散布。未調査。
文珠院………平坦地、遺物散布。未調査。
中之坊………平坦地、遺物散布。未調査、現在庫裡所在。
東之坊………平坦地、遺物散布。一部調査、現在庫裡所在。
吉祥院………平坦地、遺物散布。未調査。
梅之坊………平坦地、遺物散布。未調査。
西之坊………平坦地、遺物散布。未調査。
辻之坊………平坦地、遺物散布。未調査。
高坊…………平坦地、遺物散布。未調査。
蔵坊…………平坦地、遺物散布。未調査。
前之坊………平坦地、遺物散布。未調査。
南之坊………平坦地、遺物散布。未調査。
新坊…………平坦地。遺物散布。未調査。
以上合計二三の各坊院である。調査の結果からみると、いずれも中世段階(鎌倉時代)に成立し、まもなく消滅するというかなり短命な遺構が多く、特に建物の建て替えなども、せいぜい二度程度しかおこなわれていない。また出土遺物からみても、長期間の存在を推定させるものは少ない。