1 満福院跡

366 ~ 368

 主要伽藍の位置する平坦地から東に約三〇メートルに所在する平坦部分で確認された遺構群である。昭和五一年(一九七六)一〇月から五二年一月に墓地造成に伴い発掘調査がおこなわれた。

 調査対象地は伽藍部分とは約一・五~二・五メートル低く、大きな段差を示している。とくに西方院との間、西側崖面からは、従来多くの瓦や土器類の遺物が採集されていた。

 まず当該部分を調査の結果、伽藍建物部分と坊院地域を境する土塀(SA01)の基礎を確認し、さらに伽藍部分から坊院部分までの段差(約三メートル)を行き来するための階段状施設(SX07)を検出した。階段は自然石を用いて作られており、横幅一メートル前後で、六段分のみが残っていたが、ほかは後世の攪乱によって失われていた。なおこれにともなう、門などの施設は確認できなかった。

 調査で検出した遺構は、先の伽藍東端の遺構を除くと、建物跡一・土坑四・瓦溜り一カ所の各遺構である。各遺構について簡単に紹介しておきたい。

SB02建物

 径三〇~四〇センチ、深さ一〇センチをはかる礎石の抜き跡とみられる穴から想定されるもので、全体の柱穴は確認できなかった。柱穴から東西四・五メートル、南北六メートル以上の礎石をもった建物となるだろう。主軸方向N―一八度―Eをはかる。本来の礎石は既に失われており、規模も正確には明らかにできない。しかし出土遺物に瓦がきわめて少ないことなどから、瓦葺き建物とは考えられず、おそらく小規模な萱葺き、ないしは板葺きの簡単な造りの建物とみられる。

SX05土坑

 SB02建物と重複するかたちで、南北七、東西五・四メートル、深さ〇・二メートルをはかる不整形な土坑が見付かった。西南部で径三〇~四〇センチの河原石がかたまってみられた。用途は明らかではないが、建物の基礎抜き跡の可能性もある。南西隅からは大型の須恵器皿、東南部では小型の刀子が出土している。このほか遺物には土師器小皿・瓦器・瓦片などがみられる。出土遺物の状況から、瓦製作あるいは何らかの工作をおこなっていた場所の可能性が濃く、礼拝用ないしは日常生活に供された施設ではないだろう。

SX06土坑

 調査範囲の北側で見付かった南北一・四メートル、東西二・六メートル、深さ一・二メートルをはかる南北に長い長方形の土坑である。側壁の立ち上がりが垂直に近く明らかに人為的に掘られた穴である。内部は平坦な底がみられ、粘土層までおよんでいることから、瓦生産に必要な材料の粘土を採掘した粘土採掘坑と考えられる。しかしこれから供給される粘土では、十分ではなく、ほかにも同様な採掘場所があったものとみられる。ちなみに嶽山地域の全体が岩盤を地山としており、粘土が得られる部分はきわめて限定されているものと考えられる。

瓦溜り

 瓦が崖面から廃棄し捨てられたという印象を与える遺構である。現在の鍾楼の東側にあたり、ちょうど東塔が南東方向に崩落すれば、当該地域にこのような瓦溜りが形成されることとなる。記録による限り火災にあっていないことから、その消滅の原因はわからない。しかし遺構というより遺物の状況からみる限り、当該瓦溜りは複数の時期のものが含まれており、その終末から時期を考えれば、平安時代末ごろとみられる。