以上、近年までにおこなってきた発掘調査の結果を簡単にまとめてきた。これらから龍泉寺の坊院の状況を推定することは、必ずしも十分とはいえないかもしれないが、現段階での推定という条件を付けて考えてみたいと思う。
すでにみてきたように確認された遺構、遺物からは古代にさかのぼるものは宮東地域の建物群などごく限られたものであることがわかる。これらは『春日神社文書』に見られる「龍泉寺流記資財帳案」から復元した表8に示した建物群の中に含まれているものと考えられる。
建物名称 | 規模および形態 | 安置されていた仏像など |
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講堂 | 不明 | 薬師仏7(鋳物像5)、観世音仏4(鋳物像3)―昌泰元年(898)3体盗難、地蔵仏1、四天王4ほか |
金堂 | 瓦葺き | 釈迦1、弥勒3(鋳物像) |
塔 | 瓦葺き、三重塔 | 虚空2(鋳物像)―昌泰2年(899)盗難 |
五間建物 | 南西庇6丈8尺 弘6丈、高1丈4尺 桧皮葺き | |
九間僧坊 | 長10丈4尺、高1丈2尺、桧皮葺き | |
鐘堂 | 桧皮葺き | 天暦元年(947)大風により倒壊 |
経蔵 | 桧皮葺き、三間 | 天禄元年(970)2月8日大風により倒壊 |
僧坊 | 草葺き、七間 | |
政所屋 | 草葺き、五間 | |
大炊屋 | 草葺き | |
五間束屋 | 草葺き | |
瓦木倉 | 草葺き | |
板倉 | 草葺き |
注)竹原吉助・菅保『重要文化財龍泉寺仁王門修理工事報告書』を参照。
しかし龍泉寺の周囲に存在したと考えられる二三を数えた坊院の大半は、中世とよばれる時期、鎌倉時代前期に成立し、ほぼ戦国時代初期まで存在し、かつ近世には大半が姿を消していたことになる。すなわち鎌倉時代から戦国時代に至る期間が、坊院の大半が存在した期間に該当する。
この時期には、龍泉寺は大和興福寺の末寺となっていた(『興福寺末寺帳』)。さらに八脚門の建設や金剛力士の造立も建治元年(一二七五)九月八日におこなわれている(「龍泉寺金剛力士像胎内銘」)。これらの事業は、かなりの経済的な負担をともなうはずであり、それを遂行しているという事実は注目せざるをえない。
同時にこの時期と前後した段階に、先に紹介した二三坊の坊院の大半が成立しているのである。何故この時期に寺の組織が拡大されたのかは明らかではないし、ここで解明することは不可能であろう。しかし事実として龍泉寺のみならず、各地の寺院に共通する状況であるといっても過言ではない。
さらにそれらの坊院での生産活動や何らかの利権がともなっている場合には、たとえば油と関係があるとされる根来寺では、その成立からかなりの長期にわたって、それらが存在することがわかっている。のみならず、その一部は武装し、かれらおよび寺全体の利権を保護する私兵集団と発展していった場合もある。
しかし十分な利権もかれらを養う十分な領地も確保することができなかった寺院は、さらに坊院も短期間に縮小されていき、ついには大半がみられなくなるというのが多くの例である。龍泉寺についても、その例に漏れず坊院の大半は、相当短い期間の存在であったと考えられる。とくに龍泉寺の場合には、『蔭涼軒日録』「寛正四年(一四六三)(四月一九日)依嶽山没落、」や『多聞院日記』永正四年(一五〇七)一二月七日条「一、嶽山之麓毎日大焼云々。」などの史料にみられるように、嶽山城の落城にともなう被害の波及、その甚大さが坊院の消滅に大きく拍車をかけたものとみられる。考古学上の成果から坊院をみると、大半が火災の痕跡を残しており、その後に再建されたとみられる坊院建物は、きわめて少ないといわざるをえない。
いっぽう、嶽山との関連からみると、城の構築の最初は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期である。調査の結果は、その細かな時代の特定まで進んではいないが、その成立時期とかなり近い段階のものが多いことも事実である。城跡およびその付近地域の調査では、十分な施設の遺構が確認されていない。しかし南北朝時代に成立した日野観音寺の大般若波羅蜜多経の奥書には、北朝側年号とともに、嶽山に所在したとみられる、いくつかの陣の名称がみられる。これらについて、現状では、いずれの陣の跡も特定されていないが、山全体にかなりひろがっていたことが、単純にそこにみられる名称と現地形から推定される。とすると龍泉寺境内にもその一部がおよんでいたと考えても、あながち誤りではないのではないだろうか。すなわち坊院として名称が付されているが、その実際は、鎌倉時代後半から室町時代末期までの河内を中心に展開していた戦乱にともなう兵員の駐留場所、あるいは極端にいえば長期間にわたって設置された陣の一つであったと考えることも不可能ではないだろう。