九 宮東瓦窯跡群

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 咸古(かんこ)神社の東側にひろがる台地部分について発掘調査をおこなった結果、多数の掘立柱建物および土坑などの遺構のほか、瓦窯跡が合計五基検出された。掘立柱建物は、奈良時代前期までさかのぼることができる建物であり、おそらくは瓦葺きでない建物とみられる。創建時期に近い僧坊(僧侶の住居)とみられる。なお当該遺構の問題は、本節の趣旨から外れるので省略するが、詳細は『報告書』を参照されたい。

 現在、当該地域は霊園となっているが、瓦窯跡のうち遺存度合いの良好な三号窯跡については、現地にそのまま埋め戻して保存されている。窯跡は、かつての北群や南群のように集中して位置するのではなく、二基ごとに二群、一基が単独というような分布状況であった。

 宮東一号窯跡  調査地域の中央部付近で、確認されたものである。上部の大半を開墾によって削平されており、底部の床面とわずかな立ち上がりの痕跡を確認したにすぎない。床の残存の長さは、一・五×〇・九五メートルというわずかなもので、帯状に周囲に赤色酸化層がみられる。灰原は、そのまわりに痕跡程度が確認されたが、内部からの遺物はわずかに瓦の細かな破片という程度であった。

 宮東二号窯跡  一号窯跡の東一・八メートルに検出されたもので、一号窯跡よりも残存度合いは悪い。わずかに赤色酸化層が、一・二×一・七メートルの範囲にひろがっており、部分的に床の痕跡がみられたにすぎない。なお中央に設定した断ち割りの状況から両者は異なる窯跡であり、かつ同様な程度の温度上昇があったものとみられる。なお採集した瓦から、窯が操業していた時期は鎌倉時代後半以降とみられる。

 宮東三号窯跡  調査地域の南部に、単独で位置していた平窯跡である。調査前の段階からわずかに高い丘状をなしており、何らかの遺構の存在が予測された箇所でもあった。窯跡は、焚口から焼成部までほぼ完全に残っており、灰原の広がりは少なく、焚口から二メートル前後までで扇形にひろがっている。焚口の幅は〇・六五メートル、両側壁に自然石を用いており、さらにその上面に貼り壁をおこなっている。焚口から燃焼部に向かって床幅をひろげていき、焼成部との境の隔壁部分で最大幅一・八メートルをはかる。なお燃焼部の主軸上の床面延長は、一・五メートルをはかる。燃焼部は、当初用いられていた窯跡の側壁を左右で貼り壁をおこない狭めている。ちなみに最初の燃焼部は、焚口からすぐに左右にひろがり、長方形をなし、最大幅は中央部で二・二メートルをはかり、隔壁部では二・一メートルをはかる。焼成部は、六本の焔道と五本のロストルから構成されている。ロストルは、幅一〇~二〇センチ、延長一・五メートルをはかる。焔道は一五~二〇センチ、高さ(深さ)二〇~二五センチをはかる。焼成部は幅一・九五メートル(奥部)、二・一五メートル(焚口側)、側壁の高さ〇・七メートルをはかる長方形を呈する。側壁の補修は比較的少なく、わずかに貼り壁が一部に見られたにすぎない。また左側焔道の端に幅五センチの細い平坦面が設置されており、当該部分にも瓦を配置して焼成していたことがわかる。煙道は確認されていないが、おそらくほかの例と同様に焼成部上面に付属させていたものと考えられる。

 遺物には燃焼部側壁内部に塗りこめられていた軒丸瓦などがあり、明らかに二時期にわたって用いられていたことがわかる。とくに創建の時期に該当するものも含まれており、当該瓦窯跡が、この地域の窯跡ではもっとも古い時期のものであることが明らかとなった。瓦については、後にまとめて紹介する。

図13 宮東3号窯跡遺構実測図

 宮東四号窯跡  調査地域の北東部分から検出された、平窯跡である。窯跡の左(西)側に用途不明の小型の窯跡が付属しており、これによって一部撹乱され、右側は耕作により大きく削平されていた。焚口の幅〇・六メートル、左側の自然石のみが残っていた。灰原は焚口から扇状にひろがっており、その幅は三・七メートル、延長は二・五メートルである。燃焼部の床面延長は二・一メートルで、ほぼ平坦である。焼成部は六本の焔道と五本のロストルから構成されている。ロストルは、幅一〇~二四センチ、延長一・二メートルをはかる。焔道は八~二五センチ、高さ(深さ)二六~三五センチをはかる。焼成部は幅一・九五メートル(奥部)、二・〇メートル(焚口側)、側壁の高さ〇・三五メートルをはかる長方形を呈する。側壁は、わずかに貼り壁による補修をおこなっている。なお規模的には三号窯跡と近似するが、構造的には雑な印象を受ける。時期的に、後出段階のものとみられる。

 宮東五号窯跡  四号窯跡に平行して検出された小型の平窯である。床面の延長は一・九五、幅(奥壁)一・一、(中央)一・〇五メートルをはかる。床面はほぼ水平であるが、わずかに焚口に向かって上っている。側壁は窯跡床面に対して直角に立ち上がっており、その高さは最高で〇・五五メートルをはかる。その形状から、炭焼き窯跡として知られているものに近似するが、それら炭を焼成した痕跡はまったく認められない。床面上から土師器が採集されており、これらの焼成に供された可能性が十分考えられる。

 以上、龍泉寺境内および周辺から見付かっている瓦窯跡について紹介してきたが、このほか調査の対象とならなかった窯跡も伽藍東側に一基以上、さらに北端部分で一基がおのおの存在する。時期的には正確を期しがたいが、前者は鎌倉末~室町時代、後者は不明とせざるをえない。また現在のつつじ園内から炭焼き窯が一基確認されているが、時代は江戸時代以降とみられる。以下、各窯跡から出土した遺物について記述しておく。