出土瓦の一部を図示したものが図14・15である。このうち窯体内から出土した幾何学文様や三巴文の軒丸瓦、さらに平瓦の凸面叩(たた)き文様の特徴などから、南窯跡群については、先にも触れたように鎌倉時代と考えてよいだろう。いっぽう、北窯跡群については、窯体内部から出土した平瓦の凸面の叩き文様から、南群よりは、やや時期的に古くさかのぼる平安時代後半ごろとみられる。また各群での前後関係はわずかに認められる可能性はあるが、時期的には近接しており、各窯が平行して使用されていた可能性は十分に考えられる。なお各群ごとにそのような状況があったとしても、両群同時操業は瓦の特徴などからみて考えられない。また宮東地区窯跡群との中間部分に確認されている窯跡は、いずれも鎌倉時代以降の瓦を出土しており、その期間に相当する生産場所と考えられる。
宮東瓦窯跡群では、先の南・北群のような群としてのまとまりに欠ける。しかしこれらの中で注目されるのは、三号窯跡である。すでにみたようにこの窯は、大きく作り替えられた痕跡があり、少なくとも二つの時期の生産があったとみられる。出土した瓦には、側壁に塗りこめられていた忍冬文軒丸瓦のほか、奈良前期に分類されているものが多くみられる。さらに奈良後期および平安時代後半のものもある。前者は龍泉寺の初期の伽藍に供用されていたとみられ、すでに伽藍部分の調査でも多数確認されているものである。またこれらの伽藍が整備され、やがて補修段階に入ったとみられる平安時代後半の幾何学文の軒丸瓦がみられるのも興味を引く。すなわち創建の時期に用いられていた瓦窯を、数百年後の平安時代に再び利用した可能性があることである。
これは、表10に示した自然科学の分析結果からも推定される。宮東地区窯跡のうち、北西部の四号・五号窯跡では、四号窯跡が三号窯跡と同じ構造の瓦窯跡である。ここでの製品は奈良前期から後期にかけての軒平瓦が灰原部分から出土しており、窯体内部からは軒丸瓦も採集されている。窯の構造上から、三号窯跡よりは新しいとみているが、両者がともに煙を出していた期間も否定はできない。しかし三号窯跡が、改造後再度利用されたのに対し、当該窯跡は奈良時代後期でその役割を終えている。また中央部分から確認された一号・二号窯跡はともにダルマ窯のような構造をもつ可能性があり、時期的には鎌倉時代後半以降と考えられる。
測定窯跡名称 | 試料数 | 偏角(D) | 伏角(I) | 推定年代 |
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南群2号窯跡 | 7 | 3.9度E | 57.2度 | 1210±40年 |
北群4号窯跡 | 9 | 5.2度W | 58.3度 | 1090±100年 |
宮東1号窯跡 | 9 | 5.4度E | 42.8度 | 1480±30年 |
宮東2号窯跡 | 9 | 10.2度E | 58.2度 | 推定不能 |
宮東3号窯跡 | 13 | 7.2度W | 53.7度 | 750±75年 |
宮東4号窯跡 | 11 | 14.9度W | 51.2度 | 800±30年 |
宮東5号窯跡 | 10 | 3.2度W | 55.8度 | 1200±50年 |
注)南、北群については、夏原信義、中島正志「龍泉寺瓦窯の考古地磁気測定結果について」(『龍泉寺』1981)、宮東窯跡については「龍泉寺窯跡における考古地磁気年代推定」(『龍泉寺』1993)、いずれも(宗)龍泉寺刊。
ところで、なぜ龍泉寺境内にこのように瓦窯が多くつくられたのだろうか。瓦はいうまでもなく屋根を葺くものであり、その代用として萱(かや)や藁(わら)あるいは板が用いられる。しかし寺院の屋根は、その初期から瓦を用いるのが常であり、主要な建物以外は板・藁などを用いている。建物を建てる際には、まず骨格となる部分ができ、ついで内装にかかる前に屋根が完成するのが普通である。すなわち短期間に屋根を葺き終える必要があり、かつそれを可能にするためには、十分な材料が確保されていなければならない。すなわち大量の瓦を消費するのは、ほぼ同時期なのである。それらの数をまかなうには、短期間に一基の窯で生産される瓦のみでは、とうてい寺院の屋根という大規模な消費に耐えられなかっただろう。逆に瓦生産に十分適した場所があったとしても、輸送機関の未発達な当時の状況と後の工程を考えると、消費他に近い部分での生産であればあるほど、容易に作業がはかどったと考えられる。したがって、龍泉寺の場合にも、山間部で不便であった分、その需要に見合った生産を、消費地に近い場所でおこなう必要があったのである。
この様に考えると、瓦の自給を余儀なくされた結果とはいえ、そこに窯跡がみられる期間に当該寺院の建物の整備、特に瓦を用いた主要伽藍建物の整備がおこなわれたということが明らかになる。ともあれ、鎌倉時代後半には、八脚門(重要文化財)が建築されており、それにともなう瓦生産は、近接する南群窯跡群でおこなわれたものとみられる。またこのほかにも平安時代から鎌倉時代にかけての窯跡が多くみられるということは、当該時期に伽藍建物の再建事業が頻繁におこなわれていたことを物語っている。しかし、残念ながら、その建物がどの位置の、いかなる性格の建築物であったかは資料が残されていないので不明とせざるをえない。おそらくは、龍泉寺が大和興福寺、あるいは春日神社の支配下に組み入れられたころに、伽藍建物の大修理がおこなわれたと考えられる。