秀吉政権の全国制覇

401 ~ 402

織田信長の天下統一の事業は、天正一〇年(一五八二)六月、京都の本能寺で明智光秀の急襲にあい、あえなく挫折してしまった。信長が死亡した本能寺の変の当日には、秀吉が備中高松城で中国の毛利勢と対陣中であったが、急いで毛利氏と講和をまとめ、直ちに引き返し、山崎の合戦で光秀を破って、信長の後継者として、もっとも有利な立場に立った。同一一年四月には、賤ケ岳の戦で柴田勝家を破り、彼を越前北ノ庄に自害させた秀吉は、ついで大坂の地を手に入れ、大坂城の築城をはじめた。

 秀吉の築城工事は天正一一年九月に開始されたが、その翌年一二年四月には小牧・長久手の合戦があり、長久手方面の局地戦では徳川家康の軍に敗北したが、家康と和議を結び豊臣政権の成立をみるにいたった。この間、大坂城築城の工事が進展したらしい。一二年正月には、大坂城に茶室山里の座敷開きが行われ、同年八月に秀吉は新築の城内御殿に移っている。また、一三年四月には、天守・櫓が完成して、本願寺の使者として、坊官の下間頼房らが大坂城に秀吉を訪問しており、城内のいろいろな建築がつぎつぎと進行していることがわかる(『大阪府史』五・『新修大阪市史』三)。

 その後、大坂城工事は、本丸築造の中枢部分が完成したあと、天正年間を通じその外郭工事が行われ、文禄年間には惣構堀が築造されるなど、慶長三年(一五九八)に秀吉がなくなるまでつづけられた。秀吉は、天正一三年七月、関白となり従一位に叙せられ藤原と改姓し、一四年一二月には太政大臣となり、豊臣姓をうけた(『新修大阪市史』三)。大坂城の築城と城下町の経営とに非常な熱意をもって当たったほかに、治政として、家臣の配置や蔵入地の設定、刀狩・身分法令の発布、検地事業などを実施し、政権の基礎を固めた。この間に、四国・九州の平定から天正一八年の小田原の陣、奥州平定から葛西・大崎一揆の鎮圧にいたって天下統一を完成した。すべて軍事的な武力征服の連続であった。富田林市域を中心とした南河内一帯の情勢はどうであったか。以下、このことにつき叙述をすすめたい。