大坂城に本拠をおいた秀吉は、全国的に枢要の地でもあった摂津・河内・和泉の三国に、自己の直轄地(蔵入地)と家臣たちの知行地とを配置していった。南河内を中心に具体的に述べてみたい。中世以来の古社寺に対しては、社寺領の安堵や神官・僧侶などの諸役免除を認めていったらしい。たとえば、名刹たる天野山金剛寺に対して、秀吉は、天正一一(一五八三)年九月朔日付で、金剛寺領として三〇七石を安堵した。しかしそれは、秀吉によって一たん没収された。翌一二年九月一二日付の秀吉の朱印状によると、三〇〇石を改めて寺に寄進するとあり、三〇〇石だけが秀吉の恩恵として寺領が認められた。もっとも、文禄三年(一五九四)一二月には、ふたたび検地の結果、三〇七石が寄進されたのである(『河内長野市史』五)。
河内の場合には、秀吉は、その直臣たちに零細な知行割を実施したことが注目される。たとえば天正一一年六月には、福島市正(正則)に近江国栗太郡で二九〇八・四石と、河内国八上郡で河合郷三一七・八七石、金田郷一七一八・三石などで合計四九四四・五七石が与えられ(『松原市史』三)、加藤清正も近江・山城・河内で三〇〇〇石を貰い、河内の分は讃良郡の中垣内村三〇二石と北野村七五九石であるが、天正一三年には、市域の錦部郡宇礼志(うれし)村・錦郡村で四三四石を加増されたという。加藤嘉明も近江・山城・河内・播磨で三〇〇〇石を与えられ、河内では八上郡中村郷五五四石が含まれている(『大阪府史』五)。そのほか、かかる類いは、黒田長政が丹北郡住道村で四五〇石、山内一豊が交野郡禁野で三六一石余、伊東祐兵が丹南郡半田村で五〇〇石、今枝勘右衛門が古市郡臼井村三四〇石、夫間勝兵衛が丹北郡大塚村で一三三石を受けたことなどがあげられるという(同上)。ともあれ、秀吉の武将の一人として、賤ケ岳の戦の七本槍の一人で、朝鮮侵略に際し蔚山の戦などで勇名をはせた加藤清正が、一時期であったにせよ、市域の村落の領主であったことは興味深い。
以上の事例が物語るように、河内で所領を与えられたのは秀吉の直臣たちであり、しかも、一〇〇〇石未満という零細な知行であった。こうした小さな知行地だけを、各領主は支配していたとは考えられず、それ以外の秀吉の直接支配地たる蔵入地を管理する代官にその支配を委せ、知行分の収入だけを貰っていたのでないかとされている。この事実と関連して、こうした零細・分散した知行地は、秀吉の大坂城に出仕した直臣たちに、「在京賄料」という形態で給与されたのではないかとする高尾一彦の見解は、大変、興味深いものがある(同上)。