秀吉の河内蔵入地

404 ~ 407

秀吉の直轄領たる蔵入地は、故森杉夫の研究によると、全国の総検地高一八五〇万九〇四三石のうち二二二万三六四一石を数え、全国総石高の約一二%に相当した。国別にもっとも蔵入地が多いのは、近江の二三万一〇六二石で、総蔵入地高の一〇・三九%となる。ついで、摂津の二一万三一石がつぎ、全蔵入地高の九・四五%となる。第三位にあたる筑前は一八万六〇七七石で、同じく全蔵入地の八・三七%。つぎの豊後は一六万八二一一石で、全蔵入地の七・五六%をしめる。この数値は、慶長三年(一五九八)現在のものであり、朝鮮侵略の臨戦体制下で、兵站基地としての、筑前・豊後などの北九州地域の役割が大きかったことを示すものである。それらにつづいて、河内は、検地高二四万二一〇六石のうち、蔵入地は一五万六五三五石で、全蔵入地高では七・〇四%、河内一国では六四・七%であった。河内を含め畿内および近国の蔵入地が、秀吉政権の上に果たしている役割が、極めて大きいことが理解される(森杉夫『近世部落史の諸問題』、『松原市史』)。

表11 慶長3年(1598)豊臣政権の蔵入地分布
国名 検地高 豊臣氏蔵入地 国/総
畿内
山城 225,262 84,869 3.82
大和 448,945 100,462 4.52
摂津 356,069 210,031 9.45
河内 242,106 156,535 7.04
和泉 141,513 97,464 4.38
小計 1,413,895 649,361 29.20
東海道 伊賀 100,000 2,194 0.10
伊勢 567,105 102,514 4.61
志摩 17,855
尾張 571,737 144,674 6.51
三河 290,715 6,549 0.29
遠江 255,160 43,480 1.96
駿河 150,000
伊豆 69,832
甲斐 227,616 10,000 0.45
相模 194,304
武蔵 667,126
安房 45,045
上総 378,892
下総 393,255
常陸 530,008 10,000 0.45
小計 4,458,650 319,411 14.36
東山道 近江 775,379 231,062 10.39
美濃 540,000 38,494 1.73
飛騨 38,000 2,003 0.09
信濃 408,358 55,265 2.49
上野 496,377
下野 374,084 1,851 0.08
陸奥 1,672,806 10,000 0.45
出羽 318,095 26,244 1.18
小計 4,623,099 364,919 16.41
北陸道 若狭 85,000 3,000 0.13
越前 499,411 131,637 5.92
加賀 355,570 10,012 0.45
能登 210,000
越中 380,298
越後 390,770 5,000 0.22
佐渡 17,030
小計 1,938,079 149,649 6.73
山陰道 丹波 263,887 55,174 2.48
丹後 110,784
但馬 114,235 5,000 0.22
因幡 88,500
伯耆 100,947 500 0.02
出雲 186,650 2,000 0.09
隠岐 4,980
石見 111,770
小計 981,753 62,674 2.82
山陽道 播磨 358,534 112,203 5.05
美作 186,019
備前 223,762
備中 176,929
備後 186,150 1,500 0.07
周防 167,820
安芸 194,150
長門 130,660 1,003 0.05
小計 1,624,024 114,706 5.16
南海道 紀伊 243,550 55,418 2.49
淡路 62,104 28,959 1.30
阿波 183,500
讃岐 126,200 13,250 0.60
伊予 366,200 70,978 3.19
土佐 98,200
小計 1,079,754 168,605 7.58
西海道 筑前 335,695 186,077 8.37
筑後 265,998
豊前 140,000
豊後 418,313 168,211 7.56
肥前 309,935 10,000 0.45
肥後 341,220 300 0.01
日向 120,088
大隅 175,057 10,000 0.45
薩摩 283,483 19,728 0.89
壱岐
対馬
小計 2,389,789 394,316 17.73
合計 18,509,043 2,223,641 100

注1)『松原市史』1、717ページより引用。
 2)国/総とは、総蔵入地に対する国別蔵入地の割合を指す。

 天正年間については、文禄年間の検地以前に、天正一一年と一二年から一三・四年にかけ指出検地が実施されたといわれる(速水佐恵子「太閤検地の実施過程」(『地方史研究』六五))。これらに関係する史料として、すでに先学により紹介されているものに、大阪府立中之島図書館所蔵の「天正十二年十一月九日 河内国御給人之内より出米目録、御蔵入れニ野帳之うつし」がある。この内容は、河内一国の一部分についてであるが、天正一一年と一二年との村高の増加の差を、出米として書き上げたものであるとされている(『大阪府史』四)。市域関係の村々の部分についてあげておきたい。

写真135 天正12年「野帳のうつし」 (大阪府立中之島図書館所蔵文書)

     (前略)

       石川郡

一千五百九十七石二斗  とんた村四村

  右之内より三百六十一石八斗六升九合出米

一百六十三石  ひかしいたもち

  右内より四十七石五斗五升四合  出米

一二百四十九石四斗五升  りうぜん

  右内より丗石八斗三升一合    出米

一三百四十九石九斗七升  かんなべ

  右内より二百九十石三升     出米

     (中略)

一三百九石一升      北大友

  右内より五十六石九斗二升七合  出米

一二百丗石八斗      やまちうた

右内より六十五石三斗八升一合    出米

     (中略)

一百五十四石九斗     南大友

  右内より廿三石二斗三升五合   出米

一三百丗石五升      別井村

  右内より五十石         出米

     (中略)

一千七百十八石四斗八升   きしの庄同 宮村

  右内より四百八十九石四斗六升三合出米

 村名の箇所に知行人の記載がないのは、その村が秀吉の蔵入地であったからであろう。「とんた四村」とは、おそらく、富田林・新堂・毛人谷・中野の四カ村をさすと考えられるが、具体的には明らかでない。市域内の村落として、秀吉の直轄領であったのに、とんた四村・東板持・龍泉・甘南備・北大友・南大友・山中田・別井・喜志の各村落があったことが知られる。この史料は、吟味検討したうえで分析を加えられるべきであるが、ここでは、市域の関係部分のみ、とりあえず掲載しておきたい。