秀吉の時代に、石川郡の代官として伊藤加賀守秀盛の名前が見える。彼は秀吉に仕え、太郎左衛門尉ともいい、天正一一年(一五八三)賤ケ岳の合戦や、同一三年紀州根来衆との戦に従軍した。同一八年一二月一一日知行地を美濃の内に支給され、慶長五年(一六〇〇)には西軍に属し伏見城攻撃に参加したという(山本大・小和田哲男編『戦国大名家臣大辞典』)。彼は天正一一年一二月、建水分神社の社家に対し禁制を与えている。それは社殿の周辺の立木などを勝手に伐り取ることを厳禁し、無断で伐採した者に対しては発見次第に処分する旨を申達しているのである。すなわち、建水分神社所蔵文書に、
石川郡上之水分、宮山之内、社当之まわり切取候事、一切かたく令二停止一候、若ぬすミ取者於レ有レ之者、随二見相一可二成敗一者也
天正十一年 伊藤加賀守
十二月 日 秀盛(花押)
水分社家中
神社の境内地を保護し、外部からの不法の侵入を防ごうとするものである。また、翌一二年六月八日に秀吉の命により、市域に所在する美具久留御魂神社たる下之水分社(喜志之宮)に対して、祈祷料所として字中池の下の田地一反徳分一石三斗代を寄進したことが知られる(中世九三)。同日に、上之水分社に対しても、同様に、祈祷料所として字加茂所の田地一反を寄進し、ともにこの地域の神社に対して経済的な基盤を与えていることが注目される。いずれにも肩書には「石河郡代官」と記されている。また、同年九月九日には、叡福寺太子廟に灯明料として、字つく田の田地一反を寄進したことが見える(『大日本史料』一一の一二)。この場合は、石川郡蔵入奉行とする。翌一三年閏八月一八日と推定される書状はつぎの通りである。
以上
先度被レ参、種々御造作罷成大慶候、随而瓦大工申付遣候、土之有所見せられ可レ然候、薪人足之儀者、自二其方一、可レ令二仰付一候、早々急御聞かせ可レ然候、
恐々謹言
閏八月十八日
伊大秀盛(花押)
吉祥院鳥居殿
これは河内石川郡代官たる伊藤秀盛が、同国の吉祥院に対し、瓦大工を派遣するので瓦製造用の土がある場所を見分させ、瓦焼成のための燃料たる薪や人足を用意してほしいというのであり、おそらく、寺社の建築用の瓦製造の仕事を管理させたものであろう(建水分神社文書)。