秀吉政権のもとでの石川郡代官たる伊藤太郎左衛門尉秀盛の行動につき、興味ある記事が『河内屋可正旧記』(以下『可正旧記』と略す)に述べられている。『可正旧記』(野村豊・由井喜太郎編清文堂出版)は、いうまでもなく、石川郡大ケ塚村の庄屋たる壺井可正が、元禄~宝永年間約二〇カ年にわたり、書き留めた記録である。寛永三年(一六二六)の生まれで豪農であるとともに、能楽・和歌・俳諧などに造詣が深く、当時の知識人でもあった彼が、村内や近村での事件や村内諸家・人物の風評、自らの趣味である能楽や俳諧のこと、毎日の農事作業など、日常生活に立脚した記述が多く、近世初期から中期ごろまでの、市域内外の村落事情を知るうえでの好史料とされている。
さて、『可正旧記』によると、伊藤秀盛は「萬無道にましまし候事、当国にかくれなし」といわれ、彼の武断的な政治が、この地域の住民に一種の畏怖感を与えたと述べられている。しかし、大ケ塚村の乾町・東町の鎮守であった一須賀神社(天満大自在天神)に対しては、その神徳をあがめ、天正一七年(一五八九)の検地のとき、境内を無年貢地とし、のち、慶長一三年(一六〇八)片桐且元の検地も伊藤秀盛の先例にならい、宮山の内の新開地に一石五斗三升六合と高付けしながら、除地として年貢免除の対象としたなど、伊藤秀盛の無道な圧政も神社に対しては及ばなかったと断っている。
さらにつづいて、つぎのような伊藤秀盛の政治の一端を伝えている。当地(大ケ塚村)の神主与左衛門が、伊藤秀盛の圧政に立ちむかい抵抗した。その具体的な内容は不明であるが、彼の暴政にあってその地位を奪われ、自己の出身地にすら、帰ることが不可能となったことを語っている。また、庄屋村役人層と思われる人物七人が中心となり、やはり、秀盛の苛政に抵抗したが、その結果は、七人が大坂で処刑され、その家族も近辺の石川の広瀬河原で苛酷な刑罰にあったことを記録している。そして「御公儀様ニ向イテイキドオリタル者ニ、本望ヲトゲタルハ昔ヨリ一人モキカズ、菟(兎)ニモ角ニモ、上タル人ニハ随フ程行末ノヨキ事アラジ」と結んでいる。これらの一件の詳細は不明であり、考証・分析する必要性は残っているとはいえ、石川郡代官であった伊藤秀盛の圧政の一端を物語るものと考えてよいであろう。文禄年間に入ると、河内国一円に太閤検地が実施された。市域では錦部郡の錦郡村、彼方村、板茂(板持)村などの文禄検地帳が残っている。秀吉政権の五奉行の一人であった増田右衛門尉長盛や、宮木藤左衛門などにより実施されたのである。