関ケ原合戦後の諸情勢

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慶長五年(一六〇〇)九月の関ケ原合戦において、徳川家康を推戴する東軍は、石田三成らを中心とする西軍を破り、戦闘は一日にして東軍の勝利に終った。家康は同月二七日に大坂城に入り豊臣秀頼にあい、ついで西の丸に入ったのである。この間、関ケ原合戦後の慶長五年九月二一日付けで、家康は富田林村に対し禁制を下し、両軍の軍勢の乱暴狼藉や放火を禁止し、関係のない妻子や牛馬などを掠奪することを厳禁し、違反者は厳罰に処することを申し渡している(中世九五)。さて家康は、関ケ原合戦での論功行賞を行い、西軍に味方した諸大名たちの除封・減封を行った。この戦は、大義名分の上では豊臣氏と徳川氏との合戦ではなかったが、実際には、徳川氏が豊臣氏から天下を掌握するための戦いであった。関ケ原合戦の論功行賞により、豊臣秀頼は、摂河泉三国六五万七四〇〇石の一大名となり、慶長三年当時に四〇カ国にまたがっていた豊臣氏蔵入地の二二二万石余が、大幅に削減された。一大名に転落した豊臣秀頼が、大坂の陣の開始までの約一五カ年間、市域を中心とする南河内と、どのような関わりをもったかという点を中心に、その実際を眺めてみたい。

 家康はいうまでもなく、豊臣氏の財力消耗のため、盛んに秀頼に寺社の修理・造営を勧めたといわれ、豊臣氏も家運挽回を夢み、神仏の加護を期待するため、寺社の造営や土地の寄進などを実行したのであった。すでに秀頼は慶長六年(一六〇一)に、摂津の四天王寺を修復しているが、同八年四月、市域の近隣たる河内の叡福寺に寺領を寄進し、翌五月に誉田八幡宮の社殿を再興、山手銭を寄進している。前後して、中河内の玉祖神社・枚岡神社の造営や、同一〇年には金剛寺の修築、さらに同一一年には片桐且元をして、誉田八幡社の社僧・社人・神子らの課役を免除していることがあげられる。河内以外にも、摂津の勝尾寺・中山寺などや、和泉の穴師神社・聖神社などにも及び、彼の領国以外に山城では、東寺・醍醐寺のほか、慶長一一~三年間を中心として、相国寺・石清水八幡宮・北野神社・鞍馬寺・金戒光明寺などにまで修築を実施している。

 これは家康の意図のほかに、秀頼自身としても、秀吉の後継者としての威信を示す手段でもあったとされている(『大阪府史』五・『新修大阪市史』三)。

 かくのごとく、秀頼は数多くの寺社修復を行ったが、秀頼の実施した社寺修復のうちで、京都の方広寺の大仏再建は、とくに秀吉の遺志をつぎ、力をそそいだといわれ、著名な事例であった。秀吉の死後の翌慶長四年から大仏再建に着手し、いったん、同七年一二月、半ば竣工していたのが失火のため、大仏殿もろとも灰燼に帰した。しかし秀頼はあきらめず、同一四年正月、大仏再建に着手し、同一八年にはほぼ完成に近づいた。この大工事に当たり、西国の日向・土佐・備中などから巨木をあつめ、大坂城内におかれた秀吉の遺金をおしみなく使い、西国諸大名も米穀をおくり工事の進行をたすけたといわれる。それはすでに、「凋落の色が明らかとなりつつあった豊臣方にとって、当時の政治の中心であった京都において、自らの地位を誇示するための唯一最後の手だてであった」とされているのである(『大阪府史』五)。

 豊臣氏の命運をかけてのこの大工事に際し、秀頼は、自己の領国たる河内国から、大がかりに農民らの賦役を徴集して実施したことが窺える。市域内につぎのような史料が残っている(北大伴西村家文書)。

(A)    以上

 急度申候、仍大仏手伝俄ニ多入申ニ付、惣村御蔵納分不残高三百石壱人宛、千石夫五百石夫之外ニかゝり候条、殊ニ手長所之内富田林之内ニて職人之分除、其外ニ拾三人割符有之候条、双方相談候テ割合出し可申候、来十八日早々大仏にて市村之なや衆へ慥成仁拾三人めしつれ罷上可相済候、由断有ましく候

一つき木割符之事、何ニて板茂ニて不申渡候哉曲事候、以来之為に候条、急度穿鑿之曲事ニ可申下候

                               八六左(花押)

            七月八日

             富田林

             中野村

             大伴

             板茂(カ)

             山城

             大ケ塚

               庄屋中

 

(B)

急度申候、大仏御普請手伝不足ニ付、方々御蔵入ゟ高百石ニ付人足壱人ツゝ御遣候、若江郡なとははや明日まて廿日余大仏相詰候、即為其替石川郡中も百石ニ壱人ツゝ明八日早天ゟ罷上、其日ニ大仏へ参着候様ニとの御ふれ候間、無油断申付候て富田林之もの共相談候て上せ可申候、大伴之紺屋分者引可申候、其通太子なとへも可申候

          かしく

               八六左(花押)

        八月七日

                                       田平吉利次(花押)

        大ケ塚藤兵衛

        山城 加右衛門

        大伴 清右衛門

        板持 助右衛門

写真137 大仏造営手伝廻状 (西村家文書)

 この(A)・(B)史料はその文面からも知られるとおり、秀頼の方広寺大仏殿の修築関係のものである。双方ともその年代は、慶長一五~六年ころと推定される。内容は大仏殿普請のための賦役人足を、秀頼領国の村々から徴集を命じたものである。(A)史料は秀頼の支配の村から、高三〇〇石につき一人ずつ差し出させ、世話している区域のうち、富田林村とその周辺で、紺屋役関係の職人分を除き一三人を割り当てるので、関係の村々で相談して人足を差し出し、来たる一四日に大仏殿修復の現場に世話人が引率のうえ、参集することを命じている。また、大仏殿普請のための用材も全く提供のない村は、吟味の上で処分すると申し達している。七月八日付で、八木六左衛門から、富田林・中野・大伴(北大伴か)・板持・山城・大ケ塚の諸村にあてられている。

 (B)史料は、八月七日付で、おそらく(A)史料よりも後のものと推定される。大仏殿修復工事の進展にともない、緊急の指令として差し出された。文面によると、大仏殿修復のための賦役の人夫が不足するので、秀頼支配の村々から、村高一〇〇人に人足一人ずつの基準で差し出させるが、河内国若江郡などは、もう二〇日間もずっと人足を提供してきた。そこでその交替として、石川郡からも同様の基準で人足を差し出し、明八日早朝に出発し、その日の内に大仏殿現場へ到着するようにせよ、とのことであった。なお、富田林村の者にもよく相談し人足を差し出すことと、大伴村は紺屋役運上銀を上納しているので、それを差し引き、同じ組所属の太子村にもその旨を伝え申してほしい、と付言している。八木六左衛門と田平兵(田村平兵衛カ)の二人から、大ケ塚・山城・大伴・板持の四カ村にあてられている。

 さて、富田林村を中心として毛人谷・新堂・中野の各村を含む四カ村組および北大伴村を中心に太子・森屋の三カ村組は、富田林と北大伴の二カ村が、それぞれの所属の村々の紺屋運上を取集め上納する慣行であった。それらは、高屋城の畠山および三好両氏の時代から、それぞれの染物の御用をつとめたというので、その時の紺屋仲間の持高分の課役を、紺屋運上の上納と引替えて免除されていたというのである(近世Ⅰの三・四)。しかしその詳細は明らかでない。秀頼は自己の領国の村々に対し、方広寺の大仏造立のための賦役の徴集に強い熱意を示し、関係の村々へ指示を与えたのであった。

 こうした寺社修造と並んで領国経営に関連して、富田林地域やその近傍に、領国内の検地が実施されていることに注目しよう。すでに豊臣秀頼は、摂津南部から南・中河内を中心として、灌漑農業の展開に大きな役割を担っている狭山池の改修を実施している。慶長一三年(一六〇八)二月、片桐且元を総奉行として、普請奉行の林又右衛門尉・小嶋吉右衛門尉・玉井助兵衛の三人が現地で指揮し、慶長の大改修を完成せしめている。その経費は、すべて豊臣氏の財庫から支出された御入用普請であった(『狭山町史』一・二)。同年一〇月には、狭山池の大改修の中心であった片桐且元が、富田林・毛人谷・新堂・山中田の各村落(近世Ⅰの二・三・四)や、喜志村(『富田林市史研究紀要』四)の検地を総括している。同じころ市域の北大伴村の検地が実施されているが、狭山池の大改修工事を現地で実施した林又右衛門尉と玉井助兵衛の二人が検地奉行でもあった。また、龍泉村の検地も、牧次右衛門・田村平兵衛の二人が関係している。さらに慶長一七年に、中河内の常光寺(現八尾市)が修復され、同年一〇月には中河内の渋川郡一帯に慶長検地が実施された。検地奉行は、片桐且元の担当のもとで、同郡竹渕(たこち)村は、林又右衛門尉と小畑十左衛門と渡辺八兵衛の三人で実施されている。亀井村も安養寺喜兵衛と伊藤太郎左衛門とが、植松村は牧次右衛門と岡崎忠左衛門との二人が、それぞれ現地奉行として関係し実施したのである(『八尾市史』史料編)。

 このように、秀頼の寺社造営と、領国の慶長検地が実施されたが、前者については、単に豊臣氏の財力削減といった見地からのみではなく、後者と相関連し進行している情勢から考えると、広く、秀頼の領国経営の一端を示す事業として捉えらるべきである。