豊臣秀頼が家運挽回、武運長久の祈願を込め実施した寺社の造営が、かえって、その滅亡を導く一大事件となり現れた。慶長一九年(一六一四)には、京都の方広寺の大仏が秀頼ら豊臣側の寄進により完成し、その開眼供養の儀式が挙行されることになっていた。ところが家康側は、予定されていた開眼供養の日が吉日でないことと、供養当日における座班をめぐって問題があるうえに、大仏の鐘銘の「国家安康、君臣豊楽、子孫殷昌」の部分が、徳川氏にとり大きな問題があることを通告してきた。大仏開眼の供養儀式が中止になると、関東方と大坂方との対立は緊張の極に達した。豊臣方の宿老たる片桐且元は、両者の仲介に努めたが、情勢は解決の方向には赴かなかった。且元は大坂城を退き、弟の貞隆とともに茨木城にたてこもり、徳川家康は駿府にあって大坂城攻撃を決意したのである。
こうして大坂冬の陣は開始された。大坂方は期待した旧豊臣大名系の援助もなく、新参の浪人衆が主体で、約九万の兵力を以て相対峙した。また、大坂城に近接した摂津・河内地域の土豪や百姓のなかには、強制的にかり出され、起請文を書き籠城した者もあるという。徳川方は一一月に家康や秀忠が、二条城・伏見城からそれぞれ出発し、約二〇万の軍勢で、奈良・枚方方面に進み、家康が住吉に秀忠が平野に陣した。徳川氏の主力隊は大坂城の南部に集結して、この方面から大坂城を攻略しようとした。一一月二二日ごろ、鴫野・今福方面で両軍の合戦が始まり、本格的な戦争となった。冬の陣の直接の戦禍は、ほぼ大坂市中とその周辺に限られていたので、富田林市域には戦いによる直接の被害は少なかったように思われる。しかし、一二月一七日には朝廷から和議斡旋が提示され、同月二〇日に両軍の和議が成立し、家康は二条城を発して関東へ帰った(『大阪府史』五・『新修大阪市史』三)。