徳川方と豊臣方の和議の成立後、わずか五カ月にして、豊臣方は、徳川方の和議条件の履行の違約をせめて豊臣方は、再度、戦をはじめた。家康も四月一八日には上洛し、秀忠は同月二一日に伏見城に入った。大坂夏の陣が開始されたのであった。いまや本丸のみを残すことになった大坂城は、もはや籠城戦は不可能であり、野戦での戦闘を余儀なくされた。夏の陣の主戦場は、五月六日の道明寺・誉田方面での戦、八尾・若江方面での戦および翌七日の天王寺・岡山方面での戦であり、二日間で終了した。七日の夕方に大坂城は炎に包まれ落城した。八日には豊臣秀頼はその母淀殿とここで自害して、大野治長ら武将・侍女たちもこれに従い、豊臣氏は滅亡した。道明寺・誉田方面での戦いは、富田林市域から一里半ぐらいしかへだたらない近接で行われた戦闘であり、六日朝、道明寺方面で、大坂方の後藤基次・薄田兼相の軍と徳川方の水野勝成・片谷重綱の軍との間に始まった。数時間にわたる激戦で豊臣方は、後藤・薄田両部将を失った。おくれて戦場に到着した真田幸村・毛利勝永の軍は、また、八尾・若江方面での木村重成・増田盛次の戦死をはじめとする大坂方の敗戦の知らせをうけ、その兵を大坂城へと収めたのである。
戦闘には兵士たちの刈田や放火、掠奪や婦女暴行などの暴力的な不法行為がつきものであり、敗残方の兵士の四散する中で、こうした行為は日常化している。禁令・制札が発布されても、こうした違法行為はいたる所で行われた。大坂夏の陣が始まる寸前、慶長二〇年五月二日、徳川秀忠の名前で富田林村に対し禁制が出されている。その内容は、兵士たちの乱暴・狼藉行為を禁止し、竹木の伐採や放火などの行動を厳禁するもので、違反者は厳罰に処すると記されている(中世九五)。市域外の金剛寺に対しては、秀頼の名前で、同年四月二九日、ほぼ同じ内容の禁制が発布されている。また、観心寺に対しても、大坂夏の陣の終了直後、慶長二〇年五月一〇日づけの、在地の甲斐庄喜右衛門尉正房が、大坂方の逃亡した敗残兵士のかくまいや逗留を厳禁し、大坂方の兵士たちの人改めを実施したいとの書状が遣わされているのである(『河内長野市史』六)。このような制札や禁令の背後には、当然、大坂城方面からの落武者たちが、市域および近隣へのがれ来り、放火や金銭物品掠奪などの乱暴な非法行為をなしたことが考えられる。