富田林村に近接した石川郡大ケ塚村の、大坂夏の陣の直後の騒動につき、『可正旧記』には、つぎのようにみえている。
○河内屋了西妻妙意当地乱暴ノ時逃シ物語ノ事
当地ハ藤堂和泉守様御朱印ニテ、別条ナシト了西等堅申付シ故、心安ク思ヒケレ共、若物取共乱入事アラバ逃テノク時持参スベシトテ、銀弐貫目計ウチガヒ袋ニ入、珠数蕪ノ如クシテ二階蔵ノハシノ下ニ置ケリ、然ル処ニ、何トヤラン北口サハガシク成テ、早物取共乱レ入テ、鉄炮ヲ打カケ、誰々ハコロサレタリ、ト様々ノ取沙汰急ニ有シカバ、家来ノ者共、ハヤ/\出給ヘト声々ニ云ケレバ、包ミ置シ弐貫目計ノ銀ノ事、思ヒカケモナク、打捨テ逃テ行シガ、北別井ノ辺ニテ、跡ヨリ逃テ来ル者共、早了西モ北口ニテ討死セラレタリト云声ヲ聞、足モタゝズ臥テ歎ク、召ツレタル下女下人、ヤウ/\ニイタハリ、手ヲ引ナンドシテ、終ニ東坂喜右衛門ガ方ニ至レリ
(中略)
一 了西妻、二人ノ子共下女下人等ヲ召ツレ当地ニ帰テ見レバ、荷物蔵、カル物蔵、不残物取共取破テ、浅間敷躰トナレリ、彼銀子モ跡形モナクナリケリ
(下略)
長い引用であるが、大ケ塚村において、大坂の陣の後の敗残の兵士たちの物資掠奪の生々しい実情を伝えるに、充分な記録であろう。また、同書には「一元和元年五月乱、一両日過テ、乗了親新兵衛、当地北口ニ出テ、大坂ノ方ヲ詠レバ、イマダ余煙残テ、何トヤラン物スゴキ折節」という書き出しではじまり、大坂夏の陣の終了後、大ケ塚村に流浪してきた年齢三〇歳ばかりの女性のことを記録している。女性の語るところでは、今度、大坂の陣に出陣した「真田殿ノ先手ヲセシ、那須ノ久右衛門殿」という高貴の者の子息を連れて、やつとこの地にたどりついたという。文字どおり着のみ着のままでのがれてきたので、途中の旅費もなく、二人の男・女の子を養子に引き取ってほしいと懇願したのであった。乗了親新兵衛は一部始終を聞き、二人を養子に貰った。女性は涙を流し喜んだが、女子はのち、誉田屋甚左衛門一家が引き取った。ところが、新兵衛宅に真の親が現れたので、甚左衛門にも語らい、父親に子女ともに連れ戻して貰ったという出来事を記載している。そして「乱世ニハ、懸ル哀レナル事古今多シ。今ノ時節有難キ事ニ非スヤ」と記事を結び、戦争の残した大きな爪跡を述べているのである。