幕初の南河内支配の諸領主

423 ~ 424

慶長・元和年間の両度の大坂の陣で、豊臣氏が滅亡したあと、豊臣氏の地盤であった上方畿内の地域に、幕府はしだいに、徳川氏の勢力を浸透させていった。富田林村を中心とした市域のいくつかの村落は、石川郡の中枢をなす村々として、地域支配の上に重要な役割を占めるものであったことは、いうまでもない。富田林村と近接した毛人谷・新堂・喜志などの諸村の、元和期から寛永・正保期の支配領主の変遷は、村明細帳類に見えるところでは、つぎの通りである。

  前々より御代之事

元和元卯年同二丙辰迄二ケ年長谷川佐兵衛様御代官所

元和三丁巳年同七辛酉年迄五ケ年小堀遠江守様御代官所

元和八壬戌年より寛永四丁卯年迄六ケ年猶村孫兵衛様御代官所

寛永五戊辰年より同 九壬申年迄五ケ年小堀遠江守様御代官所

同十癸酉年より正保二乙酉年迄拾三ケ年松村吉左衛門様御代官所

正保三年丙戌年より明暦元乙未年迄拾ケ年松村権四郎様御代官所

  (下略)

 これは天保一四年九月「毛人谷村明細帳」の記述の一部であるが、(近世Ⅰの四)、富田林村(近世Ⅰの三)、新堂村(平井家文書「宝暦十二年村明細帳」)、喜志村(『富田林市史研究紀要』四)などの記事内容も全く同一である。

 元和期の最初の代官として、長谷川佐兵衛の名前が見える。長谷川佐兵衛は藤広ともいい、常陸国の生まれである。彼は大名佐竹義宜の家臣であったが、慶長八年(一六〇三)家康に仕え、同一一年には長崎奉行となった。諸外国と国交親善をはかる一方、キリシタンへの圧政を行っている。同一五年一月、来航したポルトガル船マードレ・デウス号を、有馬晴信らとともに、長崎港で自爆せしめた。同一九年堺奉行を兼任し、翌年大坂夏の陣後の、焼失した堺の市街地の復旧につとめ、新しい町割をしいた。なお、元和元年閏六月に、小豆島の代官を兼任し、同三年一〇月に死亡している(高柳・松平共著『戦国人名大辞典』)。彼の経歴からも知り得るように、長崎奉行として活躍し、また、畿内の海外貿易港たる堺の奉行を兼ね、元和の兵火の後の復旧に尽力するなど、徳川政権から重視されていた代官であった。彼が富田林村をはじめ、近接の村々の支配領主であったことは、徳川政権の畿内統治にとり、富田林市地域の重要性を裏書するものといってよい。