元和三年(一六一七)から同七年までの五カ年間と、ついで、寛永五年(一六二八)から九年までの同じく五カ年間、都合一〇カ年間は、富田林村をはじめ近接村落、近世初頭、茶人大名として名声をはせた小堀遠江守政一が、その支配領主であった。彼の父は小堀新助政次であり、幼時には政一は父政次に従って大和国郡山にあり、豊臣秀長に仕えた。慶長九年(一六〇四)には父の遺領として一万二四六五石余を継ぎ、備中国松山城にあって、備中の国務を預かった。いわゆる備中国奉行の役職である。彼は、慶長一一年に後陽成院の作事奉行、同一三年駿河国府中城の作事奉行、同一七年名古屋城天守閣の作事奉行と相ついで、建築・造園にすぐれた才能を発揮した。備中国の国奉行としての多忙な国務と併行しての仕事であった。大坂冬の陣では、大和郡山城の攻略に従事している。元和三年には河内国国奉行に就任した。大坂の天満居宅を与えられ、河内国の国務を執行したものと思われる(人見彰彦『備中国奉行小堀遠州』、森蘊『小堀遠州』)。
大坂天満居宅は、大坂三郷天満組の南木幡町(みなみこわたちょう)(現大阪市北区西天満三丁目)に所在している。明暦元年(一六五五)の大坂三郷絵図に「南こわた町」とあり、その西部の一画に小堀大膳屋敷がみえる。のち、貞享四年(一六八七)新撰増補大坂大絵図では、小堀屋敷の域内に「酉ノ年より町屋二十九」と記されており、酉年は天和元年(一六八一)である。貞享期から元禄期にかけ、しだいに町屋が建て始められたらしい(『大阪府の地名Ⅱ』(『日本歴史地名大系』二八))。
この間、彼は元和三年に伏見城本丸書院の作事奉行のほか、同六年から大坂城作事奉行として、徳川氏による大坂城の復興に際し、外曲輪一帯の工事の指揮を委任され、山岡図書影以(かげもち)とともに、奉行として、御門・惣廻り・櫓などの工事に当たっている。小堀政一は六年七月に作事奉行に任命され、翌七年にその任を終えており、現存する大坂城内の建物として、千貫櫓と乾櫓とがあげられるが、いずれも建築家として今日評価の高い小堀遠州の遺したものと、いえよう。このとき、津藩主で築城の名工といわれた藤堂和泉守高虎が、普請奉行として、遠州のコンビであった。高虎と遠州とは同郷のよしみだけではなく、血統も近い間柄であった(『新修大阪市史』三、森蘊前掲書)。この間に、元和六年五~六月を中心に遠州は、富田林市域にも近い狭山池の北堤が、長雨などで決壊したので、応急の修復工事を実施し、翌七年正月ごろに本工事にとりかかった。その時、彼は狭山池の水下の村々に池普請場の割当てを命令し、あわせて水下の村々から工事人足を徴発させ、池守を指揮して普請人足の差出派遣を厳命しているのである(『狭山町史』一・二)。河内国奉行として、彼の多方面にわたる活動の一端を物語るものがある。
杉山家文書の「御用留日記」には、小堀遠州が富田林村の支配領主であった元和三年から、同六年までの年貢免状の写が記録されている。河内国国奉行として、もっとも重要な任務の一でもあった知行村々からの、年貢徴集を実施していたことが窺い知られる。