猶村代官と小堀遠州

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小堀遠州は元和八年(一六二二)に、河内国国奉行から近江国国奉行に転じ、同九年から伏見奉行を兼任した。その間、同年大坂城本丸の仮御殿の作事奉行や、寛永元年(一六二四)から翌年にかけての二条城作事の奉行などを歴任し、寛永三年から翌四年中、大坂城天守と本丸の作事を担当し、翌五年にかけても、仙洞(後水尾院)や国母(中和門院近衛前子)両御所の作事を引受けるなど、精力的に建築・作事の仕事に多忙な日を送っている(人見彰彦前掲書)。

 この間、富田林村などの支配領主は、元和八年から寛永四年(一六二七)までの六カ年間は、猶村孫兵衛に転じた。猶村孫兵衛代官は河内に生まれ、徳川家康に仕えて大和・河内両国の代官であった。元和三年(一六一七)五月に、徳川秀忠から、備中国小田郡走出村で一六〇〇石、後月(しづき)郡の内木子村で四〇〇石と、あわせて二〇〇〇石の所領をうけている。あとの孫七郎も、大坂冬・夏の陣に家康に供奉して銀子一貫目を与えられ、寛永二年七月には、大和国十市郡倉橋村三八〇石、山辺郡毛原村一〇〇石、羽山村三石五斗、備前村一六石五斗と合計五〇〇石を給付されている。ところが、寛永五年一一月、弟の孫九郎と争い、そのため改易処分となり、備中国に謹慎を命ぜられたという(『断家譜』二)。

 寛永五年一一月に猶村代官の改易後は、ふたたび支配領主は、小堀遠江守政一となり、寛永五年から九年まで五カ年間継続した。この領主交替のときの年貢徴収の引継ぎについて、寛永五年の年貢免状には、つぎのように記されている。

   辰之年物成下札之事

             石川郡之内

一高九拾三石壱斗九升八合    富田林村

  此取九拾壱石壱斗九升八合

 右是ハ猶村孫兵衛当秋中、在々立見之上以致吟味候帳面之積也、孫兵衛御改易ニ而、我等ニ被御預、石川郡御代官未相究候、当納致遅延候而我等下札遣候、来春早々より大坂御蔵詰候間、枡目含ヲ入、極月廿五日切ニ皆済可仕者也

   寛永五年

    辰十二月吉日

         小堀遠江印

          庄屋百姓中

                                    (杉山家文書「御用留」)

 この史料に記されている文言の通り、猶村代官が寛永五年一一月に、突然に改易処分になったので、猶村代官が現地見分の上で取究めた年貢につき、そのあとの収納を委任された。当年の年貢納入が遅延するので、そのあとの年貢徴収の「下札」を村方に布達する。来年春から大坂御蔵に収納したいので、一二月二五日限りで必ず納入すること。以上の意味の内容が述べられている。

 寛永五年から同九年まで富田林村など四カ村は、小堀代官の支配がつづく。この間も、小堀代官は河内国の知行村落の治政以外に、寛永五年九月から翌年六月まで、二条城二之丸の作事奉行として事にあたり、寛永六年には江戸城西之丸の庭園の泉水の作事を命ぜられ、東奔西走の多忙な毎日を送ったことと思われる。寛永一一年七月に、家光将軍一行の上洛があり、そのころから「五畿内諸公事被 仰付候」とあるように、寛永中期ごろからの幕府の畿内西国統治のための「八人衆」の有力な一員として、小堀遠州は、淀城主永井尚政・勝竜寺城主永井直清兄弟をはじめ、京都所司代板倉重宗、京都奉行五味豊直、大坂町奉行久貝正俊、曽我古祐、堺奉行石河勝政などとともに、有事のときは、京都所司代の指揮のもとで幕府の独断専行ができる支配体制が成立したなかで、一七世紀の中ごろを中心として、幕政の上に活躍しその名をはせるのであった。